跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/09/06 BGM: Marimari - Everyday, Under the Blue Blue Sky

今週のお題「好きな小説」
発達障害のこの脳の中で、ある夢が風船のごとくふくらんでいるのを感じる。でも、それについて書く前にいつものように今朝の記録を書くことからはじめたい。今朝、イオンでポール・オースターの初期の逸品『ガラスの街』を読み返す。この作品をはじめて手に取ったのはいったいいつのことだったか。たぶん高校生の頃のことだろう。17歳だったか……いつものつまらない話をするが、そのころから思えば人生に絶望して泣きたくなるような思いで生きていたなと思う(無力感にとらわれて、これから来たるべき未来に対してもひたすら眼を塞いで生きていたっけ)。当時のことを思うにつけ、これもいつも書いていることだけれど「いま」の状況がほんとうに夢のように感じられる。友だちがいて、あんなに悩まされた酒も辞められて、仕事はストレスフルではあるけれどおだやかな暮らしを営むことはできている。

『ガラスの街』はいわゆる推理小説・探偵小説の様式(別の言い方をすればプロットの構造)を備えている。スジを粗略すれば、ある人物が私立探偵よろしくある事件を依頼されてその謎を解こうと調査を開始し、その卓抜な知性を駆使して推理をめぐらせる。だがこのオースターの作品では、主人公がその謎を解こうと深入りすればするほど彼を取り巻く世界がカオスの様相を呈しはじめ、だんだん悪夢のアリジゴクの如き世界へとなだれ込んでいく(この作品が示す陰謀論的な世界はむしろ「いま」こそひたひたと迫るものがあるとすら言えるのではないか。いや、これはファンのぼくの贔屓目がすぎるだろうか)。何人かの批評家はオースターの作品について(たぶんにオースターに対して否定的な響きを込めて)安部公房との類似を指摘する。たしかに安部公房の作品も主人公が謎の中に投げ込まれてその中でアリジゴクに陥っていくところは似ているかなあ、とは思う(安部公房とオースターはたしかにその根っこにフランツ・カフカという巨人からの影響があるとぼくは感じる)。

もちろん、それぞれの仕事におけるそれぞれの作家の個別性・個性を評価しないと読んだことにはならないだろう。安部公房とオースターのあいだには歴然とした違いがある。だが、彼らが共通して見据えて表現したものとはつまりこの世界がどんなふうに謎めいており、しばしば「よそよそしい」「不気味な」「アンフレンドリーな」ものになりうるかということなんだろうと思う(離人症的な……というと大げさかもしれないが)。記憶違いかもしれないが、過去にオースターの作品は「エレガントな前衛」として紹介されてきたのを思い出す。主に柴田元幸によるそれこそ洗練された高品質の翻訳もあって、たしかにオースターの華麗なかつエレガントな世界を堪能してきたことを思い出す。言い換えれば、オースターの世界は「清らか」すぎてストリートの猥雑さを描写するには至っていないという評価だってできるのではないか……話が錯綜してしまった。「前衛」という言葉に恥知らずにも噛みついてしまうが、少なくともぼくからすれば『ガラスの街』は実にリアルで現実的な、「前衛」ではなくまさにたしかにこのぼくのリアリティに張り付くようなひりひりする作品だと思う。それはぼくの肉体を冒し、骨まで染み込むなにかを備えている。 

その『ガラスの街』を読み終え、書こうかと思っているメモワール(回想録)について考え始める。どんなことを盛り込めるだろうか、と。発達障害者と診断されたこと、友だちと出会ったこと、英語を学び始めたこと、グループホーム暮らしを始めたこと、あれもこれも……あれこれ考えていてふと、タイトルを思いついた。『宍粟画』というものだ。これはぼくが好きな映画監督ヴィム・ヴェンダースの作品『東京画』にあやかった……というかパクってしまったものだ(「宍粟」とはぼくの住む町の名前だ)。休憩時間になり、こんなことを考える。悪ノリついでに言えばこんな時、ジム・ジャームッシュがさっそうと発表したあの映画を引用したくもなる。ぼくにとってこの町での暮らしとは実に「ストレンジャー・ザン・パラダイス」なものだと。