跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/07/10 BGM: Ryuichi Sakamoto - energy flow

今日は待ちに待った休日。今朝、英会話関係のZoomのミーティングに参加してそこで英語で語らう。今日の話題はイケアの新しいオンライン戦略についてだった。その後、町の警察署に行きそこで運転免許証の更新を行う。すったもんだの末その更新を終えてから、図書館に行き本を返す。漱石の未読の作品を借りるかと思っていたのだけど、前々から気になっていたもののまったく手に取る機会を逸してしまっていた作家の1人である李琴峰の新作『言霊の幸う国で』を見かけ、興味を惹かれたので借りることにした。

昼食を摂ったあと昼寝をして、その後グループホームの副管理者の方にお会いすべく本家に行く。そこで書類にサインをして利用料を支払う。それらが済んだあと、イオンに行き読みかけていた夏目漱石『こころ』の残りを少しずつ読む(フェネスと坂本龍一のコラボ『Cendre』なんかを聴きつつ読んだ)。読むにつけ、もちろんこれは個人の勝手な見解の域を出ないのだけど、この「青春小説」はまざまざと「死」を描写・接写しているという感想を抱く。別の角度から言うなら漱石はぼくたちの生きる人生とはなにかをそんなかたちで対照的に照らしているということになる。死を書くことがすなわち生きることのかけがえのなさを同時に描き出すことにもつながっている、ということになるだろうか。

しばし読む手を止めて、いつもやっているように英語のメモをメモパッドに書きつけていく。この感情・印象は村上春樹の名高いベストセラー小説『ノルウェイの森』に実にそっくりだと思った。『ノルウェイの森』もぼくにとって人生とはどんなものかを「死と生」「別れと出会い」を通して描写したものと映るからだ。単純な、誰でもわかる理屈としてぼくはこれまで死んだことはまったくない(少なくとも、この肉体が死んだことはない……はず)。したがって、ぼくは死を実体験で語ることは不可能である。でも――実に頭でっかちな屁理屈を並べることになってしまうけれど――こうした作家たちはこの究極の謎としての「死」を目を背けず・ごまかさず眦(まなじり)を決して凝視していると映る。生きることのむずかしさ・不可解さにぶつかり始める若い人たちはこうした姿勢に共感するのではないだろうか。そう信じる。

こんなふうに上にずらずら書きなぐって並べ立てた理屈をいぶかしい、あるいは端的にアホくさいたわごとと受け取る人もいるかなとも思う。というのは、まさにそんな若い盛りの人たちが「死」を彼ら自身の問題として真剣に考えるなんてことはまったくもって現実的ではないとも言えるからだ。そんな「死」以前に彼らは生きて学ぶことを通していろんなことを(ぼくのコチコチに固まった脳が具体的な例として思いつくのはせいぜい「初恋」「ファーストキス」「お酒」といったことになってしまうが)体験・体感するのがスジだろう、と。でもぼくの好きな作家・坂口安吾が語るように、若い人たちはその人生(青春期・思春期)の過程を通して精神面で誰よりも「老いる」「老成する」時期がありうるのではなかろうか。だからこそ、そんな彼らは葛藤を経験することによって死について学ぶレッスンを経験していき、人生がどんなに豊かなものなのかも学ぶのかなあ……なんてことを考えてしまった。

漱石は享年50だそうだが、ぼくは49歳の読者として『こころ』から実に学ばされてしまい、この作品がギュッと詰まった・濃縮した内容を備えた一作であると唸り、完成度にあらためて感服させられる(好みの問題としてはぼくは実は『吾輩は猫である』の路線を好むにしろ。でも、『行人』『明暗』といった未読のものもぜひ読んでみたい)。でも、ぼくはまだまだ生きることがなんなのかわかっちゃいないただの凡夫に過ぎない。次にぼくがはじめて経験すること・初体験することはなんだろう。そう言えば、ぼくはいまだキャプテン・ビーフハートやサン・ラの音楽も知らないままであることを思い出した。