跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/06/29 BGM: P-MODEL - 夢見る力に

どうやらぼくときたら、しょっちゅうなんともスットコドッコイなことを言ったり書いたりしてしまっているようだ。たとえば、ぼくはまあ自分でもあきれるほど浴びるように本を読んでいるのだけれど、本好きの方が語るようには読書の習慣が心を豊かにするとは信じてはいない。少なくともぼくは自分の心が読書によって豊かに耕されたとは思っていなくて、むしろもっと友だちと交際して「書を捨てよ、街へ出よう」的にロマンティックなできごとを体験していたらとさえ願う(恥を忍んで言えば寺山修司はぜんぜん読んだことがないのだけど)……あるいは断酒に関しても、ぼくは自分の意志が強いと思ったことはこれっぽっちもないのだった(意志の弱さを認めるところから断酒の成功への道は拓けていく、とさえ教わったと思う)。そしてぼくのポリシーの1つとして、ぼくは夢を持つことがすばらしいとはどうしたって思えないのだった。むしろ夢見ることを止めて人生を地道に生きて、日々自分の状況を直視して1日1日を明日につなげていく道を選んでいる。まあ、そういう人生もあるということだ。

今朝、仕事をしていてこんな疑問に襲われた。それはぼくを構成する要素である自閉症をどう捉えるかということで、つまりそれは「病気」なんだろうかそれとも「障害」なのかという話だ。日本では面白いことにこの自閉症について、「発達障害」という言葉で表現されることが多くぼくもついつい「いや、ぼくは発達障害者なので」と自己紹介したりしているのが現実だ。いままでそんなに深く考えずテキトーに使ってしまっていた言葉だが、いまこうして振り返るとこの自閉症という現象は実に「面白おかしい」「ファンキー」なものであるとも思う。少なくともこんなスットコドッコイな人生はこの自閉症あってのことなので、だから読書好きな「陰キャ」な性格もアルコール依存症もこの脳の特性とさえ信じているのだった(養老孟司やV・S・ラマチャンドランの読み過ぎかな)。いま、ぼくはこのエイフェックス・ツインの音楽のようなファニーな味を持つ障害をそれはそれとして受け容れたい。

……なんだか「冗談は顔だけにしろ」とお叱りの言葉が来そうだ。ぼくももう10年若かりし頃上に書いてきたようなことを読んだらキレたかもしれない。でも、最後まで読んでいただきたい。いま、ぼくは自閉症をキャラの1つ、なんなら自分にとって大事なアイデンティティを構成する要因の1つとして受け容れたい。でもそれはぼく自身、ぼくの中にたしかに意志があることを自覚できるからだ。それはこんな意志だ。過去、ぼくは自分が生まれてくるべきではない「欠陥品」「エイリアン」だとさえ思っていたので、ゆえにこの障害を「病気」「異常」と思っていた。なら、「治療」というか「是正」されねばならないとさえ信じてもいて、だから医療に頼り薬を飲み自己啓発書を読みあさったりもした。しかしいまは、ぼくはこの現象はたしかにトラブルメーカーであって、外部とぼくの間に目を背けてはならない「障害」をもたらすと思う。だからそれは「障害」「ハンディキャップ」なのだと思っている。視力や聴力に「障害」がある人は生きることに困るだろうが、それは「病気」と見做してはならない(原因が「病気」から生まれうるにしても、彼らの困りごとは「障害」と捉えるべきだ)……という理屈だ。書いていて自分でもワケワカメになってきた。

でも、こんな寛容さ(あるいは自分がいかにアホなのかさらす蛮勇というか)はほかでもない日々の経験、あなたの支えから生じたものなのである。毎日、常日頃こうした日記を書き書き、あるいはミーティングに参加したりしなかったりしているうちにこんなポジティブで「馬鹿になれ」(猪木)的なアイデアが生まれてきたとも言えるからだ(ぼくは「馬鹿になれ」「ステイ・フーリッシュ」という態度が好きだ。賢くあろうとしてクールになりすぎたり、あるいは冷笑的になりすぎたりするよりはそっちを選びたい。これもまたぼくの持つ「スットコドッコイ」な考えだろう)。