跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/06/10 BGM: G. Love & Special Sauce - Blues Music

とてもよく晴れたすがすがしい朝。遅番勤務の日だったので朝は時間があった。前に買ってカバンの中に突っ込んだままだった菅野久美子『孤独死大国』に着手し、読み進める。読みながらぼく自身が過去、どんなにひどい「孤独」「孤絶」の日々を過ごしたか思い返してしまった(ブルース・スプリングスティーンの珠玉の名曲群を聴いて読むと実に心に沁みた)。そう、30代の頃にぼくはこの人生の最底辺・どん底にいてそこからもう出られる予感も感じられず、絶望して過ごしていたっけ。まだ現在交際させてもらっているジョブコーチとお会いする前のことで、両親と同居していたのにぼくはずっとこのくだらない人生を独りぼっちで生き延びなければならないと力んでしまい、誰をも頼れずに過ごしていたのだった。

その当時、ぼくはすでに深い深い、いくぶん泥臭くさえあったアルコールの沼にはまり込んで出られなくなってしまっていた。仕事が終わるとアルコールを呑み、文字どおり意識が飛んでしまうまで呑んで眠り、そして次の日を迎える。もちろん医師はドクターストップを命じるがぼくはそうできなかった。なぜかと考えると、主な原因はぼくが依存性の人間で酒とほどほどにつき合うなんてことはできないと肚をくくる必要があったからだ(それを悟るにはずいぶん時間がかかった)。でも、もう1つ思うのはその頃仮に酒をやめようと思ったとしてもなにもその後のシラフの人生を生きるにあたってのポジティブな要素を自分自身で見い出せられなかったことがあるだろう。こんな人生、酒を奪われたらなにを頼りに生きられるというのだろう……。

いま、ぼくは自分の精神状態や潜在的に持ち得るアイデアといったものが身体の健康状態に依存するとわかる。こんなことを言うと粗暴で時代遅れで有害ですらあるが、それでも「健全な精神は健全な肉体に宿る」というのは真理なのかもしれないとも思う。少なくとも、当時ぼくがそんな惨めで独りぼっちのヘビードリンカーだった頃はぼくは心を健康にかつクリエイティブに保てるような食生活なんて気を遣えなかった。なにせ酒で飢えを満たしていたとさえ言えるのだからよく病気にならなかったものだ。そんなカオスででたらめな飲み食いの日々・食生活の習慣で心がメチャクチャになってしまっていて、まさに地獄のような日々だったと思う。

その後、すったもんだがあり酒を辞め……40の歳に導かれるままに町の古民家カフェに行きそこでジョブコーチとはじめて出会った。そしてそのジョブコーチや他の友だちと交際する中で、少しずつ40以降の中年生活というか「第二の青春」を楽しめるようになったのだと思う。いま、ぼくはさまざまなコミュニティ/グループに所属して友だちと交際を楽しめている。断酒会、木曜のミーティング、英会話教室などなど。

このローカルな地縁がもたらすコネクション(つながり)が、心を救い人を癒やし、尊厳を守る……菅野久美子『孤独死大国』がそんなことを語っているとぼくには読める。もっと若ければぼくはこの菅野の実に誠実で親密さをはらんだ見解を「笑止」と却下していたかもしれない。なぜなら当時はまだ自己責任原則こそ生きる上で大事と思い込んでいて、独りで誰の助けも借りず(美しく言えば「甘えず」)生きるべきなのだと思いこんでいたからだ。でも、いまはコネクション(つながり)がぼくたちをこそ癒やし、生きる新たな力を生み出すと信じられる。すばらしい世界だと思う。