跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/06/09 BGM: Happy End - 風をあつめて

今日は休みだった。誕生日が近づき、実を言うと運転免許証の更新が迫られておりゆえに重い腰を上げる必要があって、グループホームの管理者の方の了承を得ていたこともあってメガネを新調することにした。今朝、メガネショップ「メガネの三城」に行きそこで視力検査などを行い、見積もってもらう(日記にも書いてきたが、ここ最近とみに「老眼」に悩まされておりいい機会とも勝手に思ってしまった)。その後、うだうだ過ごしたあと図書館に行き本を借りることにした。特にプランなどなく、リディア・デイヴィスガブリエル・ガルシア=マルケスの本にも食指が動くものの面白そうな本は借りられていて、なかなか見つからない。適当なところで手を打とうかと思ったがこれが本探しの面白いところで、実に興味を惹く本を見つけた。ミア・カンキマキというまったくもって未知の書き手の『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』だった。借りることにした。

もちろん、清少納言についてそれなりに知ってはいた……と書き、ここでハタと指が止まる。書き続けられない。というのは、恥ずかしいがこれまでその清少納言の有名な古典『枕草子』を読んだことは1度たりともなかったからだ。興味すら感じなかった(いちおう、橋本治による現代語訳を少しばかりかじったことはあったかもしれないがそれもずっとずっと昔の話である)。ミア・カンキマキの本書はどのようにしてそのミアが『枕草子』と出会い、そこから興趣を惹く『枕草子』との旅を真摯に開始したかが綴られている。彼女はその愛・熱が嵩じるあまり実際にこの国・日本にまで来訪し、京都で「セイ(彼女は清少納言に対してこう呼びかける)」に語りかけ、京都において清少納言が生きた時代・暮らした生活を幻視しようとさえ試みている。実にていねいで細かい読みに舌を巻いた。

日本人読者として、彼女の態度に関しては少しばかり異論を挟みたくもなったが(たとえば彼女が見ている日本の光景の中に、「いま・ここ」を生きる「モダン」な人たちはどれくらい含まれているのだろうか。清少納言ヴァージニア・ウルフを読み込むように、彼女はそうした「いま・ここ」の光景を見つめられているか?)それでもこのミアの「セイ」への実に純粋な情熱や親愛に感動し、脱帽する思いさえ禁じ得ない。これはぜひ、ぼくも腑抜けたことを言わずに『枕草子』を手に取り読んでみるべきだと思わされた。

夕食の時間、姫路風のおでんに舌鼓を打つ。その後、そのおでんを作ってくださった世話人さんがぼくが今朝探していたマルケスの本『族長の秋』を読んでおられたことに気づきしばし言葉を失う。そんなこともあるのが人生だ(実に面白おかしい、愉快な読者同士のヨコのつながりを思う)。そんなこんなで消灯時間まではぼんやり・のんびり・だらだらと管啓次郎の書評集『本と貝殻』をめくったりこないだ買った横尾忠則の『横尾忠則の画家の日記』をめくったりしていると消灯時間になってしまった。