跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/06/05 BGM: Paul McCartney - No More Lonely Nights

今日は休みだった。今朝の朝活はポール・ヴァレリームッシュー・テスト』を繙いて読みながら、「知性」とはなんぞやとぼくなりにあれこれ考えた。この日記でも書いてきたけれど、実はぼくは自分のことを賢いとか知性派だとか思ったことはこれっぽっちもない。いまだってぼくは自分がおかしな考え方を持つどす黒い、邪悪そのものの人間と思う。たぶんこの感覚はぼくの中にある、生まれついての「日本的な」シャイさというか奥ゆかしさにも由来するのだろうと思う。でも、それ以上にぼくは子どもの頃に「賢い」とか褒めてもらったことはなく、ずっと減点をあげつらわれて「バカだ」「アホだ」と責められてばかりでそれがぼく自身の考え方にとっても「クセ」になって、それがいまだに「ぼくはアホだなあ」と思ってしまう考え方として染みついてしまっているんだろうなと思う。

そんな陰鬱な、トラウマに満ちた学生時代を振り返り……そしてもう生きていける自信も湧いてこなくなり、今朝は往生してしまった。でも、そんなことでへこたれてもいられない。いつも通り、『ムッシュー・テスト』に関する英語のメモを書く。この本における語り手よろしく、そうしたノートを書きながらぼく自身も陰鬱な妄想や強迫観念に支配されないように気をつけつつ、やる気なんてこれっぽっちもなかったにせよ自分自身を「物体」「観察対象」として見つめる作業を行う。

本書でのテスト氏はぼくにとって、実にとんでもなく頭がいい・知性あふれる人として映る(ぼくとは大違いだ)。ある意味では彼はそれ以上に途方もなく生真面目でストイックな人で実にその知性を駆使して内省を深め、彼自身の心・精神を解剖して手術し続けている人とさえ映る。メンタリティ(精神)をどう分析し吟味するか。この心の「コア(中心)」にあるものをどう見つめるか。そんなこと、ぼくには逆立ちしたってできっこない。ぼくの心がそんなに強くないというのもあるが(書き忘れていたがぼくの心はたぶん発泡スチロールか何かでできている)、それ以上にぼくにとって自分自身とは人との関わりを通して共同作業(コラボ)で見出していくものであって、個人の内省・内観で孤独に見極めようとすると破綻すると思ってしまうからだ。これはぼくが飲酒にふけり孤独に日々を費やして結局にっちもさっちもいかなくなり、文字どおり破綻した経験から語っている。

テスト氏はそんな孤独なストラッグル(葛藤)というか、実に濃厚な内省を通してなにを見出したのか。そしてなにを見失ったのか。読みながら、テストは心のコアを愚直に見つめたという印象を受ける。それこそ「鋼のメンタル」で。ぼくは、さっきも書いたがマグマのように煮えたぎってどろどろにとろけている「悪」のエッセンスを自分自身の中に見出す。すでに書いたように、そんなどろどろを見つめ続けられるわけもない(そんなことを続けたら狂ってしまうだろう)。テスト氏の孤独な内観にあらためて絶句する。それは引いては、ヴァレリーという人の知性の強靭さがいかほどのものだったかをも意味しているだろう。

そんな朝活のあと、なんとなく古本屋にぶらっと行く。そこでふと見つけた横尾忠則横尾忠則の画家の日記』を買い求める。グループホームで弁当を食べて昼寝をする。実は今朝、うとうとするばかりで充分に寝付けずそんなこともあって読書は無理ゲーだった。細野晴臣のアルバムを聞きつつ過ごす。夜は断酒会に通い、そしてその後帰ってからも細野晴臣を聞きながら眠りに就いた。