この話題になると、ぼくは知り合いの元ひきこもりの人のことを思い出してしまう。だからぼくはひきこもりとしての人生が何が何でも・絶対に悪だとは言わない。人は時に、生きていくにあたって数々のトラブルを人生において経験せざるをえない。だからひきこもりとしての生を選ばざるをえない時もあるだろう。ぼく自身の「個人的な体験」を振り返ってみて、たまたまそんな孤絶した生を生きたかもしれないという偶然に思い至る。でも、ともかくもぼくは働けている。
こんなふうに自問自答するのはどうか。なぜぼくはひきこもりとしての生を選ばなかったのか。ひきこもりが悪いとは信じないなら、そう生きてもよかったのだ。それはもう自分でも謎としか言いようがないのだけれど、でもたった1つあえて理由を挙げるならば――結局それはぼくが性格として部屋の中でじっとしていられないことからあるのだろう。事実を直視したい。自分自身の部屋が落ち着く、居心地のよいところであるとしたとしてもぼくはじっとしていられないのだった。パスカルが『パンセ』で言うように、ぼくのこの卑小な生における悲劇なのかなとも思う、
過去を振り返り、30代の頃のことを思い出す。あの頃、ほんとうに人生のどん底を這いずり回って生きていたのだった。でも、何もかもがそんなにしっちゃかめっちゃかだったとしてもぼくは働くことを止める・辞めることができなかった。両親ももう高齢で、だからお金のことでぼくを助けることはできなかったからだ。仕事を強行し、そしてついに心の中でぶっ壊れてしまった。
最終的に就労不可にまで陥り、3ヶ月ほど自宅待機の日々を過ごす(何をしでかしたかは想像して下さい)。これを書きつつ、今思うのはそれがほんとうにいろんな意味での「深海」「底辺」の時期だったということ。何にせよしかし、いま書けるのはこれに尽きる。そんなみじめな心理状態を生きなくてはならなかったとしても、ぼくは部屋の中でじっとしていられない。脳が(たぶんに)発達障害的特性を持っているから、注意欠陥多動性障害を生きるしかないということになるのかなと。
ある知り合いが、日本を今春観光することを計画していることを教えてくれた。別の友だちにそのことを教えていろいろ訊いてみる。ああ、いまやぼくはすっかり「スーパーアクティブ」な人間だ。『クライング・ゲーム』という映画でこんな哲学が語られていたのを思い出す。この世界にはこんな性の持ち主、こんな性分を生きるしかない難儀な人間もいるものなのだ……。