グループホームに帰り、『skmt 坂本龍一とは誰か』を読み返す。いま生きているぼく自身のことを考える。当たり前のことを言うと、ぼくという人間はこれからどのようにも変わりうる。ぼくはこの日記を読み返すこともないし読書メーターなどのレビュー/感想を読み返すこともめったにないのだけれど、それでもふと読み返すと「えーっ!? こんなこと書いてたのかい!?」と(『サザエさん』のマスオさんの声で)ショックを受けてしまうことがある。ぼくはほんとうにコロコロ考えが変わってしまう人間なので、『skmt』でサカモト教授が語っているように昨日のぼくと今日のぼく、明日のぼくを貫く一貫した発言・人格を約束できない。むしろぼくは悪ノリしてしまって「昨日までの自分自身にサヨナラだ」「いまを生きる。それがすべてだ。明日のことも明日考えよう」と思って生きるだろう(という「いまの観測」だって、明日どうなっているかまったくわからない……というのは極論・暴論ではあるにせよ)。そんなことを考え、むしろそんな「多面体」「矛盾」を備えた「カオス」としての自分自身をそのまま提示するのが面白いのではないかとも思い始めた。いや、そんなことをすると「わかりにくい」「なんだコイツ」なコンテンツができるのだろうとは思うのだけれど、でも面白いと言えば面白いような気がするのだった。
それで、『skmt』を読み終えて……今年は教授が亡くなった年だったな、とあらためて思い至る。彼の思想信条や作り出す音楽をすべて愛好してきたわけではない。YMOはリアルタイムで通ったわけではないし(もちろんYMOは坂本龍一だけのトリオではなかったことも踏まえる必要がある)、その後の映画音楽やソロやあるいはアルヴァ・ノト/カールステン・ニコライ、フェネス、中谷美紀などとのコラボについても決して丹念にフォローできてきたわけでもない。彼の発言もすべてを支持するわけではない。だけど、彼がまさにワールドワイドに八面六臂の活躍を示した姿を見てぼく自身も励まされたり癒やされたり、自分自身が生きる上でいろいろなことを考えさせられたり刺激を受けたりしたことも確かなのだった。『skmt』の中で教授は9.11同時多発テロやイラク戦争に対して果敢に・アクチュアルに発言や行動を試み、そして音楽制作を熱心にねばり強く続けている。それは意地悪い冷笑的な捉え方をすれば「軽薄」「浮ついた」ところがあるとも取れなくもない。だが、なら「浮ついていて何が悪い」とも言えるのではないか。そんな教授が見せる「そそっかしさ」をぼくはそれこそ「全肯定」「全支持」したいとあらためて思った。
さて、どんなキーワードから自分自身を掘り下げていけばいいのだろう。「М(マゾヒズム)」や「autism(自閉症/発達障害)」、「1990s(90年代)」やあるいはそれこそここまで書いてきたような「Ryuichi Sakamoto(坂本龍一)」など……英語と日本語の二ヶ国語/バイリンガルで書き記したいのでどういう構成にしたらいいかについても思い至る。考えあぐねていて時間が過ぎ、そして今日が終わってしまった。書けるなら「polyglot(多言語使用者)」についても書きたいし、日々の思いを断片的に書き留めるのもいいのかもしれないとも思う。いや、まだ形にもなっていないアイデアなので「飽きたので止めます。ごめん!」となる可能性も大いにある。だから「ひまつぶし・道楽として」楽しむというゆとりを持たせるのがいいのではないかと思った。それでタイトルをどうしようか考えていて、たまたまその教授の曲「undercooled」のカッコよさにしびれていたところだったので便乗・流用してタイトルをつけてしまった。どうなるかはわからないけれど、末永く根気強く「アセラズクサラズアキラメズ」な気持ちを保ち続けたいと思っている。何かぼくに語ってほしいテーマやキーワードはありますか?
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