今年読んだ本で印象深かったもののことを思い出している。最近読んだ坂本龍一『skmt 坂本龍一とは誰か』からその坂本龍一の『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』のことを思い出したりして……そこから「1つの時代を生きた人」「生き抜いた人」のそのねばり強い意志について考えさせられる。と書いてみて、ここ最近こんな感じで(ぼくは上にも書いたように「根っからの」ちゃらんぽらんな人間なのに)マジメに「自省」「反省」とともに自分の人生を振り返る時期に来ていることを確認する。人生100年時代というけれど、ならばいまのぼくは折り返し地点を生きているわけで(何ら成し遂げたわけでもないと思うけれど)「いまから『残りの人生をかけてやりたいこと』『あきらめるべきこと』を考えるべきなのかなあ」とも思い始めた……のかもしれない。「かもしれない」と書くのは、自分の中でこの感情がはっきりした形というか像となったわけではないからだ。ぼくは気まぐれな人間なのでこの気持ちも明日・明後日になれば変わってしまっているかもしれない。ただ、自分の思いや意見を残したいという気持ちに嘘はついていないつもりである。さて、これから何ができるだろうか。
朝、とある方と英語でやり取りをして……それでぼくの英語が「AIみたいですね」と言われてしまった。思えば先の日曜日に友だちからぼくの(日本語での)しゃべりについて「NHKのアナウンサーみたいだ」と言われたりもして……ぼくはどうやらこんな堅苦しい、外交官のようなしゃべり方が身についているようだ。フランクに、友だちっぽくしゃべったりすることができない。過去にぼくは「もっと心を開いて」と言われたことがあった。飲み会の席、あるいはシラフで……そんなことをフランスの友だちに話したところ、「あなたはAIじゃない。英語はときどきミスをするけれど、自分の考えをしゃべっている。AIは『まとめ』『コンピレーション』しかしゃべれない」と言ってくださった。それも1つの考え方だろう。過去にぼくはそれこそ「思考マシーンになりたい」「感情を失くして、機械のように考えたい」と思いもしたのだった……ここまでこの日記を書いて、上の段落に書いたことを読み返す。AIどころではなく、生身のぼくは実に「布団大好き」「ふにゃふにゃ」な人間だ。あらためて自分のことがわからなくなる……皆さんから、このぼくはどのように映っているのだろうか?
夜、いつものようにZOOMでミーティングに興じる。今回は雑談ということで、今度の日曜日に行われる市内のふれあい祭りについて話が及ぶ。ぼくが英訳を手伝ったバルーンアートのこと、料理のこと、市内の外国人のこと、日本語学校の事情についてだ。こうした雑談の席ではなかなか口火を切ることができず、いつも置き物のようになってしまう。友だちが「そういう場では『ぶつかってから、ゆずる!』」と教えてくれたっけ。なかなか実践しようとしてできていないのが現状である。ただ、それでもZOOMはチャット機能がついているからぼくでも文字でチャットができて、その点では重宝している。ともあれ、そんな風にあれこれあたふたして過ごしたので本も1ページも開けず、よくわからないままに終わってしまった。Podcastを録音するのももっと先になるだろうし、時間の使い方が下手だからなのかどうなのかわからないけれどどこか気忙しく過ごしてしまっている。Telegramの友だちのグループにも投稿したいトピックがあるのだけれど、そっちも追いついていない……ぼくは元来「貧乏暇あり」な、暇を持て余して酒に溺れる人間だったのにエラい変わりようだなと思った。