跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/08/29 BGM: Pizzicato Five - 皆既日食

今日は早番だった。朝、いつものようにこの日記を書く。日記にしても詩にしても、書く前は実を言うとほんとうにおっくうで「めんどくさいなあ」としか思わないのだった。書くことがある時はまだいい。まったくない時もあって、そんな時は頭の中が真っ白なままパソコンなりノートなりに向き合わなければならない。そこから、まったくの「無」の状態から言葉を何とかしてひねり出す。時にはまったく思っても見なかった、「あさっての方向」から言葉が出てくることもある。自分でもどうしてそんなことを思いついてしまうのかわからないけれど、ともかくも自分の中から文字通り「生まれ落ちた」言葉。その言葉に基づいていろいろアイデアをつけ加えていくと、やがてそれは1個の表現になる。そのようにしてぼくはものを書いている。内田百閒や古井由吉といったぼくの敬愛する作家たちも「ネタ」や「書くこと」がなくなったところから書くのが本物の表現ということを言っている……と、著名な書き手の言葉で箔をつけてしまうのがぼくの困ったところなのだった。ともあれ何とか言葉を生み出して格好をつけて終える。何だかぼく自身の人生の縮図のようにも感じられる。

そんな風に書くというのは、計算高く頭でっかちに考え込んで何でもかんでもコントロールしていくというやり方では「ぜんぜん」ないということである。むしろ、頭の中を積極的に(「自分から進んで」と言ってもいい)空っぽにして、外にある何か大きなものにその「カラの心」を開くということだ。思えばこの書き方はぼくの生き方そのものでもある。自分自身のこの愚鈍な、ちっぽけな頭で統率できることにはおのずと限度がある。それより、偶然性を頼ってその時々に起きることを自分なりに織り込んでアドリブ/即興で生きることの方が現実的であるし面白くもある。言い方を変えれば直感というかインスピレーションを信じて生きるということ。詩を書き始めたことだって、こうして日記を書いていることだって思えばまったくの「勘」任せだ。これは合理的な思考を重んじる姿勢から照らし合わせれば実に「ちゃらんぽらん」な、「でたらめ」「無計画」な生き方かもしれない。でも、最後につじつまを合わせて自分の生き方に責任を負えばいいわけだ。そう思って、ぼくは占いやその時の気分までも総動員して実にその日・その時の「ノリ」「気分」で生きているのだった。

今日、ぼくが参加している発達障害を考えるミーティングのLINEグループで「やりたいことが見つからない」という投稿があった。これは実に普遍的な、強力な問いだと思った。呪縛とさえ言える。ぼくのことを思う。ぼく自身も「やりたいこと」が何なのかわからなくなってつらかった日々があった。まったく「やりたいことは何だろう」と自問自答しても見つからない、頭の中が「無」「カラ」の状態……そんな時は、それこそそんな考えをいったん棚上げにして「動いてみる」のはどうかと思う。「苦しまぎれ」でも「破れかぶれ」でもいい。ぼくの場合はほんとうにネタに困ったらX(元Twitter)を見るし、行けるようならそれこそ何も事前に(あえて)考えず図書館に行ってそこで「エイヤッ」とまったく思っても見なかった本を借りてみる。雑誌やテレビの占いをチェックしたり、散歩してみたりその時に聴きたいと思った音楽を聴いてみたり……ぼくはこれを極めて大真面目に書いている。そうして「犬も歩けば棒にあたる」で動いてみるというかやってみると、作用は反作用をともない世界から思わぬリアクションが帰ってくる。そうして、ぼくはいつもネタを拾ってかたちにしている。

夜、仕事が終わりグループホームに戻る。今日は何だか朝・昼に仕事をしたら疲れてしまったせいか眠くなって、ボルヘス『詩という仕事について』を読んでいたのだけれど寝落ちしてしまいそうになって困った。ボルヘスがこの本の中で自分自身のことを「読者」と見なしているのに興味を抱いた。ボルヘスほどのすぐれた博覧強記の巨人であっても謙虚に、自分自身のことを特権的な「作者」とは考えたりせず多種多様なテクストや書物に自分を開いた「読者」と考えているのだ……ぼくはそこから、ボルヘスもまたぼくと同じで自分自身を「カラ」にして世界にあまたと存在する書物に向かって自分を「開示」「オープン」にしているのかなと思った(いや、失礼というかこれが噴飯物の「妄想」「妄言」なのはさすがにわかっています)。そうして、あえてオカルトめいた表現を使えば自分という人間の「チャンネル」「チャクラ」を開く。そう考えれば、人間とは実に面白い。自分の中にあるものに依存しすぎるのではなく、むしろ自分を外部を受容するラジオやスマートフォンのように扱うこと。自分自身が1個のデバイスであると認識すること……と考えていくとアブない「妄想」に至ってしまった。おあとがよろしいようで……。