今日は遅番だった。好天に恵まれて、朝の読書タイムは小西康陽の『わたくしのビートルズ』を読むもあまりはかどらなかった。天気が良すぎるせいかウキウキしてしまって、本とじっくり対峙する気持ちにはなれなかったのかもしれない。しょうがないので諦めてスティービー・ワンダーなどのソウル・ミュージックを聴きつつ、LINEグループで昨日書いたようなデジタル派とアナログ派の話について友だちとあれこれ話したり、あとは英会話教室の宿題を片付けたりする。デジタル/アナログについては使えるものを柔軟に使えばいいのであって、最初から頭ごなしに「デジタル/アナログだから」と決めつけなくてもいいという意見があった。「いいとこ取り」というか「折衷」というか、そうした柔軟な対応を採ることも大事ではないかと。
「折衷」ということで言うと、しばしば人は対立する2つのものの間で迷うことがある。「保守かリベラルか」といった大問題から「ビートルズかストーンズか」「ランボーかボードレールか」「ゴダールかトリュフォーか」といった問題まで。こうした対立はそれぞれ派閥を作ったりしてしばしばややこしくなる。私はあまりクソ真面目に考えず、「いいものはいい」という姿勢で楽しむことが大事なのではないかと思う。気分が向けば阪神ファンであったとしても読売巨人軍を応援してもいいわけなのであって、「私はこっち派だから」と相手を全否定してかかるのも世界を狭くさせるだけなのではないかと思う……そんなことをLINEのメッセージを読んで思った。対立するものの間でうまく選択肢を見出しそれを選ぶ知恵の大事さ、と言うべきか。
英会話教室のエッセイを書き、改めて自分は「過渡期」を生きているのだなと思う。ちょうどハタチの時に「Windows95」が出てインターネットが本格的に実用化された時代を過ごしたわけで、つまりは私は、冷戦構造などに代表される国家間の対立がホットだった時代を知っているということになる。と同時に、その対立がインターネットによる国際化/グローバリゼーションによって溶けていった現象を見てきたとも言える。そうした国家間の壁だけではなく、インターネットは「都会と地方」という格差/ギャップをも「均す」方向に働いているのではないか。今や、宍粟市という鄙びた郊外に住んでいてもアンテナを働かせれば文化的な最新情報を知ることができる。都会生活には都会生活の醍醐味があるとも思うのだけれど、自分はこの田舎町の生活が似合っているかなとも思う。
デジタルデバイスを駆使して、この世界のみならずヴァーチャルなネット世界を縦横無尽に生きられるようになったそんな時代。そんな時代に毒されたレトリックを敢えて使うと、私は「リアル世界の美しさ」というものをファーストに考えたいとも思う。この世界は美しいものであふれていて、それが3Dというか立体感を伴った風景として私たちの眼前に繰り広げられている。それを言い出せば、「これ」という瞬間は(トートロジーになるが)「今」しかないわけで、私たちの眼前には二度と戻らない「今」が常にリアルタイムで展開されているとも言えるわけである……なんだかサルトル『嘔吐』みたいな話だが、そんな「今」に立ち会えている奇跡を噛み締めて生きることも大事なのではないか、とも思ったのだった。「今」、私は確かにピチカート・ファイヴの音楽と戯れながら、二度と戻らない時間を生きている……。