跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/02/26 BGM: Lenny Kravitz - It Ain't Over Til It's Over

次の火曜日に英会話教室で先生たちに提出する宿題について考える。自由課題ということなので、いったい何を書くべきか考えあぐねてしまったのだった。英語学習関係のグループをWhatsAppで管理しておられるPiliさんとこのことで話をする。彼女からいろいろアイデアを提案していただき、私もあれこれ考える。ふと、自分がアナログ派かデジタル派かという話題はどうかと思った。他にも移民問題について考えるとか、自由課題なのでリディア・デイヴィス川端康成的なショートショート/掌編小説を書くという案も考えついたのだけれど、どちらも実際に書くとなると難しそうだったので先に述べた二分法の話題に落ち着いた。さて、私はアナログ派なのかデジタル派なのか。

何を隠そう、私はスマートフォンを持ち始めるのも人と比べて遅かったし今に至るもそのスマホを使ったタスク管理やメモ書きはあまりしていない。皆無というわけではないが(現に人と会う約束などをGoogle Keepのリマインダ機能で管理するようにしている。発達障害の忘れっぽさをナメてはいけない)、前にEvernoteを使ったアイデア管理を教わったことがあったのだけれど結局私の中でものにならなかった。ストンと腑に落ちないと続かないもので、今でも日記やこうした宿題のメモ書きは紙のメモパッドや父親から譲ってもらったシステム手帳に英語で書き連ねている。英語で書くようになったのはもちろん語学の修練の一環ということもあるのだけれど、すんなり私の中でさっきも言った「腑に落ちた」ことも大きいようでここ2年くらい英語メモを続けている。

その意味では自分は典型的な時代遅れのアナログ派なのかなとも思う。電子書籍も使っていないし、Twitterも前みたいにかじりつくこともなくなった。端末と向き合ってそうしたソーシャルメディアの動向に一喜一憂するより、そうした世間の動向と離れてヘミングウェイに親しむ方が自分らしい時間の過ごし方ではないかなとも思うようになったのだ。時代遅れに加えて、これはもう私自身の中の「老人力」が働き始めたのだとも思う。どんどん私は歳を重ねて「隠居」の境地に至りつつあるのではないか。枯れるというか枯淡の境地というか、このまま行くと自分は50歳か60歳くらいで水墨画や落語鑑賞でも始めるのではないかと思ってしまう。エリック・クラプトンを楽しみつつ藤沢周の『ブエノスアイレス午前零時』を読み返し、時折YouTubeで落語「芝浜」を聞いて涙する男……渋い、のかな?

夜、ジム・ホールのジャズ・ギターを楽しみつつ片岡義男を読み返す。私自身の中にあるアメリカ崇拝、あるいはもっと広く括って欧米崇拝について考える。ここ最近、こうした「国際化」「グローバル化」とは何だろうと考えている。いたずらに欧米に尻尾を振る身振りもみっともないとも思うが、同時に「日本スゴイ」という身振りにも与したくないので厄介だ。ネットの発達で相互交流が活発になり、クールなものが国境を超えてあっという間に伝播する時代。そんな中でも私は自分にとってクールなものに忠実でありたいとも思う。流行りを追うのももちろん重要なのだけれど、そんな過剰な情報の中で自分を見失うのもこの歳になると疲れる。さっきの繰り返しになるけれど、私は自分は結局年老いてもスローライフを送りレイモンド・カーヴァー村上春樹の訳で読む人生を過ごすことになるのだろうと思う。でもまだまだ、学びたいこともたくさんある。英語学習の旅に終わりはない……。