跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/01/25 BGM: 核P-MODEL - Big Brother

起きるとそこは銀世界。朝、日課としてローソンに行きコーヒーを買いそれを飲んでこの日記を書く。Facebookで他の方の雪景色の写真を見させてもらう。私とリアルでつながらせていただいている知り合いの方のところもかなり雪に見舞われたようだ。休みだったのだけど、朝はこんな雪に勘を狂わされたからか読書も何もできなくてただDiscordでダラダラとチャットをして、それにも飽きるとまた二度寝をしたりして過ごす。ふと、活きた英語をこうしたチャットなどで学ぶことの是非について考えた。それは果たしていいことなのかどうか……具体的にはスラングである"asf"という言葉に出くわしたので、それで気になったのだった。

当たり前のことを書いているかもしれないが、英語は座学ではない。「書を捨てよ、町へ出よう」と言ったのは寺山修司だったが(恥ずかしながら彼の本は1冊も読んだことがないのだった)、実際に外に出て人と話さないと学べないのが英語だ。だが、外に出てそうして人と交わるということは嫌な思いもしなければならない。教室ではまず学ばないだろう「f**k」という言葉だって投げかけられるかもしれないし、ロコツにこちらのたどたどしい英語をバカにされるかもしれない。そんな不条理を「耐えろ」と言う事は簡単だし、現実的にはそんなタフネスが求められるのかもしれない。だが、そうしてタフになることで失われるものもありうるのだろうな、と思ったのだった。昨日の桃白白の比喩が教えるように。

昼、何も手につかずぼんやりする。このままムダに1日が終わるかもしれないけれどこんな大雪ではむべなるかな……そう思っていたのだけれどふと過去に買い求めたジョージ・オーウェル『一九八四年』をまだ読んでいなかったのを思い出し読んでみた。過去に話題になっていた時に買ったまま積読で今まで過ごしてきたのだけれど、今読むと実に鮮烈にこちらを揺さぶる作品であると唸る。もちろん「現在」を予見した作品として生々しいというのもあるが、それ以上に私自身がこれまで信じていた人生哲学を批判する作品としても受け取れるように感じられたのだ。それはつまりカフカの言葉を借りれば「君と世界の戦いでは、世界を支援せよ」という態度だ。

「なんのこっちゃ」と思われたかもしれない。つまり私はずっと「世界に不満を持つなら自分自身から変わっていけばいい」と思っていたのだった。逆に言えば自分自身が何もしないまま世界に文句をつけていても状況は変わらない、と。だから私は自分自身の生き方を変えるべく断酒し、日々をていねいに生きることに務める。だが『一九八四年』において、奇怪なる「2+2=5」に代表される無理難題に自分自身を適合させてしまった結果「ビッグ・ブラザー」に忠誠を誓うようになる人々のおぞましさに触れてそんな自分は間違っているのかもしれないと思ったのだった。ではどうすればいいか。私がこうして主人公ウィンストン・スミスのように日記を書くことで自分自身が本能で感じた事柄を日々残しているのは、そんな事態に抗って私がなしうる本当にささやかな抵抗なのかもしれない、そんなこと考えたこともなかったが。