今日は遅番だった。朝、モーテン・H・クリスチャンセン&ニック・チェイター『言語はこうして生まれる』を読む。なぜ自分が言葉をルール通りに使えるのか、という問いを改めて自分に向けてみる。この本の理屈では、言葉はその場その場の「即興」で私たちの中で組み立てられていると語られている。そしてコミュニケーションは私たちのジェスチャーゲームとして成り立っている、と。つまり言葉が単独で意味を持つのではなく、私たちの身振り手振りが噛み合うことによって初めてコミュニケーションが成り立つ、と。極めて面白い本なのでじっくり読もうと思う。
この本のことを、とある英語学習者のWhatsAppグループに投稿する。そのグループを主宰しておられるPiliさんという方に、私はずいぶんお世話になった。もっと自分のことを受け容れ、愛しなさいとアドバイスされたことを思い出す。その言葉は私の中で活きている。いつも彼女や他のメンバーの優しさに励まされてきた。私自身、自分自身がこんな風な変わり者であることをイヤに思うこともある。でも、私は自分が別人になった状況を想像することができない。だからこのままでもいいのかな、と思う。このままの自分を微調整して、少しでもマシになるように務める……。
コミュニケーションが「即興」で成り立っているということは、私たちは青写真に描いたような計画的なコミュニケーションを行っていないということになる。いや、これは当たり前のことだ。私たちは台本に則ってコミュニケーションするわけではなく、常に「即興」で喋っている。ならば、そうした「即興」に弱い発達障害者の私がコミュニケーションで躓くのもわかる。あまり自分の発達障害に囚われるのもアホくさいが、しかし考えれば考えるほどこの発達障害が絡んだコミュニケーションの問題は味わい深い類のものだと思う。
ふと、カート・コバーンのことを思い出した。「他にどんな人間になればいいっていうんだ/謝るしかない」と彼は歌ったのだった。私も(またいつもの「自分語り」かよ、と思われるかもしれないが)自分がこんな風であることを恥じ、消え去りたいとも思った。Piliさんやその他の理解者の方と出会い、彼らに励まされることによって私はやっと自分を肯定することができるようになった。こんなにたくさんの本を読み、考えなくてもいいことを考えてしまう自分自身と向き合い、生きていく。「私は私」という居直りを自家薬籠中の物にすることに、少しずつ成功してきたのではないかと思う。