とても寒い日。アンディ・クラーク『現れる存在』を少しずつ読む。ふと「自分の心はどこにあるんだろう」と考えをめぐらせる。前にも脳科学について読んでいた時にこのことを考えた。その時は「私の心は偏在している」と結論付けたのだった。私の脳とその外にある肉体とが結ぶ関係の中にある、と。「インターネット」と呼ばれるネットワークがどこか特定の中央集権的なコンピュータの中に位置するのではなく、さまざまなコンピュータたちの織り成す関係の中にあるのと同じことだ。今回の読書でも同じことを確認することになった。
グループホームの方からLINEが届く。5度目のワクチン接種の知らせが届いたということだった。私の仕事は多くの人と関わる仕事であるため健康管理には人一倍気を遣わなくてはならない。なので受けることにする。いったいいつまでこんな生活が続くのだろうか。最初にワクチン接種をした時のあの抵抗感、あの恐怖をもう忘れてしまった。その時書いていた日記を読み返すべきかもしれない。日々はあまりにも早く過ぎ去ってしまう。そして過去はどんどん遠くに去ってしまう。それが生きるということなのかもしれない。
noteで面白い記事を読み、どのようにして私自身が発達障害を受け容れられたか考えた。私の場合、かつては「自分は不幸だ」「なぜ自分が」と思う被害者意識が強く、それが私を余計に苦しめていたと思う。自助グループとつながらせてもらって、グループホームにも住まわせてもらうことができるようになって……今やジョブコーチも利用することができ、そうした他人との関わりから自分を受容し自分に自信をつけることができるようになったと自覚している。本もそれなりに読んで知識をつけることもしたが、やはり人と関わることが自分を/相手を癒すことにつながるのかなと思う。
今年観たドラマ(完走したわけではないが)『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』を思い出す。自閉症の弁護士を描いたドラマで、この中で自閉症者の人間が果たして社会にとって有用なのか無益なのか、そのような問いを繰り広げていた(それはつまり、なぜ人はその特徴によって「自閉症」か否か分けられなければならないのか、ということだとも思う)。私も発達障害者として生きている。だが、そうした人間も扱いさえ工夫されれば活躍できると私は信じる。障害者と呼ばれる存在ではあるけれど、それでも輝けると信じたい。そう信じなければ、このような人生を生きていけない。