跳舞猫日録

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英語なんかこわくない 5

ネイティブレベルに英語を話せる価値はあるのか?|🧸|note

ぼくはこの記事を興味深く読んだ。というのは、ぼくは「ネイティブレベルに英語を話すこと」を目指したことがないからだ。これはぼくのユニークなところかもしれない。ぼくが子どもの頃はむしろ英語で世界と渡り合えている(少なくとも、世間がそう認めている)日本人に憧れた。大橋巨泉村上春樹坂本龍一といった人たちだ。裏返せば、ぼくは「努力すれば到達できるかもしれないところにいる人」に憧れたと言えるのかもしれない。ネイティブなんてなろうと思ってなれるものじゃないんだから、早々に諦めて自分の目指したいロールモデルを見つけた、とも言えるのではないかと思っている。

余談はここまでにしよう。ぼくが喋れる英語があるとするなら、それは「ぼくの英語」だと思う。それは誰かと競ってナンバーワンになる、というものではなく元々ぼく自身の中に宿っているオンリーワンの要素を煮詰めたものと言えるのかもしれない。先にリンクした記事の書き手が書いているように、そのオンリーワンの英語を自信を持ってかつ謙虚に押し出す。そんなことを狙っているんだ(自信があるからこそ謙虚になる、という逆説はぼくも日々感じている。学べば学ぶほど進むべき道はより奥深いものとなる。知れば知るほど未知の要素は増える。がゆえに謙虚になれる、ということかなとぼくは受け取る)。

「ぼくの英語」……今日もぼくはclubhouseでジュディスさんと英語で話したのだけれど、ぼくの自閉症の特性からどうしても相手のコメントにどう反応するかで「間」ができる。ラジオだと放送事故にされてしまうような長い「間」だ。おまけに元々ぼくは英語は母国語ではないので、どうしても相手が要求する反応よりも遅くなる。でも、ジュディスさんは辛抱強く待って下さってぼくの特性と絡めて、こうした自閉症をぼくが生きているから起こりうることだと紹介してくれる。ぼくの拙い会話力も、考えようによっては多様性のひとつとなりうる。そんなことをわかって下さっていると思うんだ。それがありがたい。

ということは、あなたの英語もそうした多様性のひとつとして堂々と押し出してもいいのではないかと思う。どうしたってテレビやネットでは流暢に話せる人が美化されてしまうが、彼らのしゃべりは日本語にせよ英語にせよプロの域まで鍛えるべくして鍛えられたもの。素人のぼくたちが無理に真似る必要はない。それと同じで、ぼくたちは自分らしさにこそ自信を持つべきだと思っている。言いたいことがあれば、腹に力を込めて堂々としゃべれ。これはぼくが今でもTwitterでフォローさせてもらっている大月隆寛さんが言ったことだ。この言葉を信じて、ぼくは今日も明日も言葉を発し続ける。「だから胸を張ってさ、そう!」(エレファントカシマシ「ガストロンジャー」)