跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/04/07

結局工藤庸子『大江健三郎と「晩年の仕事」』を通読してしまった。やはりこの本は私には早すぎたようだ。もっと大江を読み直してから改めて読みたい。だが、この書き手はしなやかで柔軟な知性を駆使して大江の晦渋なテクストを読み込んでいく。その筆致はこちらを引き付けるに充分で、だからわからないなりにスリリングに読むことができた。エドワード・サイードT・S・エリオットを引いて縦横無尽に広げられる論考に、「読む」という行為が単に受動的なものではなくここまで能動的にアクティブに行いうるものなのだなと思ったのが収穫だった、と書いてお茶を濁すことにする。

その後時間があったので古川日出男曼陀羅華X』を読んだ。この著者の小説を読むのは実は初めてである。思い出されるのは例えばJ・G・バラードが描くあまりにも生々しい現代社会のカタストロフだ。あるいはチャック・パラニュークが同じく現代に対して注ぐ眼差しに似た強度を感じるし、スティーヴ・エリクソン偽史とリアルを混ぜて生成する妄想にも充分比肩しうる(そのルーツをたどれば、本書でも特権的な名前として登場するフォークナーに至るのかもしれない)。実に面白い、そして生々しい作品だと思った。

だが、そうした先人たちの作品の影響圏に留まらない強さを『曼陀羅華X』に感じたのもまた確かである。古川は、まるでDJが音源を繋いでミックスさせるように自身のイマジネーションとオウム真理教事件を切り貼りする。その手付きは軽やかで隙がない。その想像力の背後にあるのはそれこそ大江やスティーヴ・エリクソンのような時代の暗部を自ら引き受けようというオブセッションなのか、あるいはもっと別の「こんな時代だからこそ楽しめる物語を語りたい」という(『平家物語』を現代語訳した「現代の琵琶法師」たらんとする)真摯さなのか。もっとこの著者の作品を読みたいと思った。

フォークナーに関しては前に読んだことのある阿久津隆の読書日記を通して関心を抱いていた。なので、『八月の光』を借りて読んでみることにする。50近くの、元英文学科出身の男がジェイン・オースティンもフォークナーも知らないのかと鼻で笑われるかもしれないが、この年齢になってみないとわからない芸術作品の醍醐味というのもあるのだからしょうがない。ハタチ頃に必死でゴダールの映画と付き合って匙を投げた記憶が蘇る。人にはその人に応じたステップアップの過程というのがあるのである。読んでいないということであれば谷崎潤一郎の『細雪』だって夏目漱石の『明暗』だって読んでいないし、他にもたくさん……。