跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/03/18

保坂和志『季節の記憶』を読み終える。初めてこの小説を手に取ったのは大学生の頃だったか。『プレーンソング』『草の上の朝食』にはないシリアスなタッチを感じる作品だと思った。それは多分作中人物が子どもを育てている設定だからなのだと思う。『プレーンソング』『草の上の朝食』ではまだ学生気分の延長上のノンキさや能天気さが見られたのだが、いつまでもそんな気分を引きずってはいられない。保坂和志の書く小説の登場人物たちはみんなそうやって、大人になることをきちんと引き受けて生きている。それがいいなと思った。

『季節の記憶』の心地よさは、そうした登場人物たちが自分たちの哲学を開陳して自分らしさを誇示することを恐れない、その凛とした態度にあるのかもしれないな、と思った。ゆえに『季節の記憶』ではハイレベルな議論が展開され、ある種の「饗宴」と呼ぶべき空間が生まれる。こんな「饗宴」を自分も小説で書きたいと思った。ただ、保坂の猿真似をしてもしょうがないので私は私の考えていることを展開したいと思う。なぜ私は生きているのか、なぜ英語を勉強するのか、などなどだ。『カンバセイション・ピース』も読み進めたい。

朝、ジュディスさんの開いたclubhouseのルームに入って日記を読む。ジュディスさんが私のことを「beautiful mind」とおっしゃったのが印象的だった。そんなにきれいな心を持っているわけではない。いつも書いているけれど、汚いことや歪んだことも考える。だから外面がそんなによく見られているとわかると混乱してしまう。子どもの頃、ずいぶん周囲の子どもから醜いやつだとか変だとかバカにされて育ってきたからその体験も原因なのかもしれない。褒められても素直に受け取れないというのはそれはそれで悲しいことだ。慣れれば受け容れられるようになるのかな?

それで時間があるので吉田健一『時間』を読み始める。吉田健一はこの『時間』でなにを表現したかったのか、なにを言いたかったのか考える。多分シリアスに時間論を展開したかったからではないだろう。いやわからないけれど、私は吉田健一は自身の中のどうしても処理できないわだかまる思いを表現したくて、こんなストレンジでユニークな時間論を書いたのではないかと思う。世界の片隅でひとりで、ハイデガーとも大森荘蔵とも絡まない時間論を考え抜く文芸評論家・吉田健一の姿が見えてくるように思う。ことによると、彼はこの世界を救うためにこんなインクレディブルな時間論を書いたのではないか、とさえ思えてくる。