跳舞猫日録

Life goes on brah!

彼女はその日、保坂和志『朝露通信』を読んでいた

今日も今日とて、ぼくは仕事が一段落ついたので昼休みをもらって職場の3階にある社食に行った。と言っても社食は今ではもう営業されておらず、ただ開放された部屋となっていて昼ご飯の弁当などをそれぞれの従業員が持参して食べに来たりする。そこでぼくは繭の姿を見つけた。繭の部署もまた昼休みをもらえる状況になったらしい。それで繭はワイヤレスイヤホンで音楽を聴きながらなにか本を読んでいた。繭はぼくの姿を見つけるとイヤホンを外して、そして笑顔を浮かべて手を振った。ぼくは話しかける。ぼくらの仲は他の従業員からはどう思われているんだろう。

「今、昼休み?」

「そう」と繭は言った。「今日も忙しかった」

「これから花見とゴールデンウィークがあるから、もっと忙しくなるだろうな」とぼくは言った。「なに読んでるの?」

「これ? 保坂和志の『朝露通信』」

「聞いたことないな」

そこで背後から苛立った声が聞こえてきた。「瀧君」

瀧、というのはぼくの名前だ。振り返るとそこには樫井課長が立っていた。「社食でムダな会話は控えなさい。クラスタができたらどうする」

「わかりました」

樫井課長はまた、ブツブツ独り言を言いながら部屋を出ていく。ぼくも空いている席に座る。ふと、ぼくのスマホにLINEの着信音が鳴った。多分タイミング的に繭からだろう。LINEのやり取りは「ムダな会話」と違ってクラスタを発生させる危険はない。同じ部屋ですぐ話しかけられる距離にいるのにLINEというのも味気ないけれど、こればかりは仕方がない。ぼくは昼ご飯のとんかつ弁当を食べて、それからLINEを見た。果たして、それは繭からのメッセージだった。

「さっきはごめんね。今、私が読んでいるのは保坂和志って作家の『朝露通信』って本」

そして、繭らしく丁寧にAmazonのリンクが貼られる。その後メッセージが続く。

「『この地上から消えたものは消えたというだけで僕に何かを訴えかける』ってフレーズが気に入っちゃった」

ぼくはLINEの返事を書いた。

「わかった。今度LINEする時はあらすじも教えて欲しい」

とは言ったものの、ぼくは決して読書が好きな人間というわけではない。ぼくがこれまで真剣に読んだことがあるのは多分一番難しい本でせいぜい沢木耕太郎止まりで、あとはとても平易なミステリを読んだりエッセイを読んだりするのが関の山だ。要するにぼくは単に怠惰で平凡な一個人というか一市民でしかない。だからぼくは繭のことをその読書だけで尊敬している。繭は本当にいろいろな本を読む。こないだは『脳のなかの幽霊』という本を読んでいた。気になって「ホラー小説なの?」と訊いたら繭は「瀧君のそういうところ好きよ」って言ってくれたっけ。

繭はいつも会うたびに本が変わっている。ほぼ毎日のように会うけれど、そのたびに違う本を読んでいる。これもまたすごいことだと思う。繭は読書メーターブクログというサイトで読んだ本の管理をしているらしい。そのサイトによれば「2日に1冊」のペースで本を読んでいる、ということだった。とてもすごいことだと思う。でも、繭は「速読や多読なんてナンセンス。雑読と遅読と再読が読書の醍醐味だよ」と言ってくれた。ぼくも頑張って、繭が読んでいた國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読もうとして3ページも読めないで砕け散ったことがあった。

それにしても、繭はいいフレーズを教えてくれた。「この地上から消えたものは消えたというだけで僕に何かを訴えかける」。いったいどんな本なんだろう。いや、そんな本を読んで繭はいったいなにを思うのだろう? 繭が考えたことは「この地上から消えたもの」に入るんだろうか。だとしたら、確かにそれはぼくに「何かを訴えかける」。