跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/02/22

今日は読書がはかどらなかった。堀江敏幸『河岸忘日抄』を少し読むも頭に入らなかった。諦めて野矢茂樹や古田徹也の本を読んでみたが、気分が乗らないままで終わってしまった。小説を書いてみようか、もしくはFacebookにまたエッセイを書いてみようかと思ったがなにをどう書くべきか手がかりが掴めない。実に自分は「燃費が悪い」というか「コスパが悪い」人間だなと思った。困難を貫く意志の強さというものを私は遂に持ち得ない。それどころかなにかやろうとしても、本腰を入れるまでにいつも雑念と戦わなければならない。

古田徹也『いつもの言葉を哲学する』という本を読んでいたら、著者の娘がなぜ私たちは「なんで、頭のなかで『こう言おう』と思わなくても人はしゃべれるの?」と質問したという話が載っていた。意志で決定するよりも先に行動してしまう、という謎。これは意識の表面に上ってくる前に身体動作が様々な局面の行動を決定しているというベンジャミン・リベットの議論を連想させる(私は『マインド・タイム』は読んだことがないのだけど)。難しくなってしまったが、要は頭で決める前に身体が実は物事を決めている、ということになる。なかなか深淵な問題だ。

茂木健一郎が「脱ペーパーテスト」と称して、日本人の英語を根本から見直すことを主張しているという。私はニュースサイトで抜粋された彼のコメントしか知らないことを断っておくが、私自身はTOEICなどのペーパーテストで基礎的な英語力を知ることは(そもそも、そんなテストで「基礎的な英語力」がわかるかどうかという議論もあるだろうが)悪いことではないと思う。故に、必要ではないか。TOEICがどれだけビジネスの場で「必須」とされているか知らないのだが、ペーパーテストは他人にアピールするだけのものではなく自分の力を見極めるためのものでもあるのだから(この真理を私は『ああっ女神さまっ』から学んだ)。

だが、茂木健一郎の主張したいこともわかる気がする。要は茂木はテクニックに淫した英語学習を行うのではなく、主張したい中身が伴った英語を語るべきだと言っているのだろう。私といえば、日々中身があるんだかないんだかわからない私のとぼけた日常を英語で発信している暇人にすぎない。だが、そんな暇人なりに英語を使っていて思うのは確かに主張したい中身も大事だが、テクニックを磨くことで言いたいことの幅は広がるという厳然たる事実もあるということだ。ちなみに私は「個性など磨く暇があったら技を磨け」という教えを守っている(この真理は私はスタパ齋藤から学んだ)。