跳舞猫日録

Life goes on brah!

2021/11/02

ついに古井由吉『槿』を読み始めた。同じ古井由吉の『仮往生伝試文』といい、こんな本を読んでどうするの、と相変わらず考えている。本を読むことでなにかが変わるのか……ここにいる自分がなにかに変身するわけではなく、本を読んだとしてもビフォー・アフターで大きな変化が起こるわけでもない。昨日まで自民党を支持していたのが急に反旗を翻すなんてことは起こらない。起こるのはささやかな変化でしかない。いや、読んでなにも変わらなかったとしたら、それはそれでひとつの変化の形なのだろうか? そんなことを考える。

私が参加している毎週木曜日のミーティングで、なにか話をして欲しいと依頼された。せっかくの機会なので考えたのだけれど、「発達障害」について話すのはどうだろうと考えた。このテーマなら、私が発達障害者であること、今まで苦労してきたこと、等などが語れそうな気がしたからだ。発達障害をめぐる問題は避けて通れないものとなっている。主語を大きくするが、私たちにだって生存権はあるし発言権だってある! ……とリキを入れてしまったが、あくまで話のネタになればと思う。さて、なにを話したらいいだろうか。

自分の中から生まれるものはどうしてこうおかしなものばかりなのだろう。そもそも、脳からなにかが生まれるとはどういうことなのか。人間が皆同じように生まれていればここまで発展することはなかったのではないか。人によっては百田尚樹を好み、他の人は古井由吉を読む、というように多様性が保たれているからこそ社会は面白いのではないかと思う。ということは、発達障害とは社会を面白くするために神が産んだものではないか、と考えてみる。あるいは、発達障害者として生まれたのだからそれを受け容れて楽しみたい、世の中を面白くしたい、と……。

選挙の余波がまだTwitterに残っているようだ。相変わらず、与党の圧勝だとか枝野の責任だとか色んな意見が聞こえてくる。もちろん政治を語るのは結構なことなのだけれど、あくまで私の美学として私はただ食べて、眠って、働いて……といったベースとなる生活がしっかりしていることが政治を支える必要条件になりうるのではないかと思っている。逆に言えば生活を疎かにして政治にのめり込むことは危険ではないか、ということだ。私も一日中酒を呑んでTwitterをやっていたことがあるから、そんな日々にはもう戻りたくない。