今日は休みだった。午前中、夏目漱石のエッセイを読み返す。『思い出す事など』と『硝子戸の中』だ。漱石という人は非常に感じやすい人であり、かつ真摯に物事を考える人だったのだなと思わされた。ある女性が自分の悲恋の記憶、辛くても充実した生を過ごしたその記憶が時と共に薄れていくことを嘆くのに対して、漱石はその時こそが彼女が負った傷を癒してくれるものだと語る。時か……と思わされた。私も随分酷いことを体験したが、時が経ってしまったからか今では悪くない出来事だったように感じられる。その意味では真理かなとも思う。
午後に近所のお寺に行く。月一回行われているミーティングに参加するためだ。そこで色んなことを話す。私はいつものように、自分がここ最近考えたことを話した。例えば災害が起きた際、人はボランティア活動を行うことがある。だがそれは、頭で「助けたい」と判断するより先に心かあるいは身体が自然に反応しているからではないかな、と思う。私が仕事に行った際に、現場の物に触れると身体が自然に反応し動くこと、それが気持ちを上向きにしてくれることと同義ではないかな、と思ったのだ。それが他の参加者の方にも通じたようで嬉しかった。
そのミーティングには、私の知人の元ひきこもりの方も参加しておられた。あまり積極的に意見を言う人ではないのだけれど、彼もまたひきこもりの人を救おうと奮戦しておられる。彼には彼にしか出来ない仕事がある。それは私にも同じで、私にしかできないことというのがあるのだろうと思う。なんだろうか、と考えた。例えば、このミーティングで学んだことを英語に訳してもっと世界にシェアすることではないだろうか……いや、これは問いの立て方がおかしいのかもしれない。目的がどうとか意味がどうとか言う前に、自然に動く身体に身を任せることの方が大事なのかもしれない。
夜、大岡昇平の『成城だより』を読み進める。いよいよ大詰めだ。音楽や漫画や映画や政治、そしてもちろん文学に至るまで大岡昇平は好奇心を働かせて様々な物事に触れて吸収し、そして考える。とても70代の老人とは思えないほどその姿勢は柔軟で、自分を特別扱いして譲らない頑固さがないことに驚かされる。それでいて自分がない、というのとも違う。これこそが知性と呼ぶべきものなのだろう。それと比べると私は観るものや読むものもより好みしてしまっているし、まだまだ青いのかもしれないなと思わされた。まだまだ青い……一生こんな感慨を感じて、遂に自分「成熟した」と実感できないままなのかな、とも思ってしまう。