跳舞猫日録

Life goes on brah!

北野武『あの夏、いちばん静かな海。』

北野武あの夏、いちばん静かな海。』を観る。実を言うと、北野武の映画というのはかなりクセモノかもしれない。蓮實重彦淀川長治から賛辞を浴び、世界的にも評価されている彼の映画はしかし黒沢清是枝裕和が撮る映画のようには「わかりやすい」ものだとは思えないからだ。それでいて北野武の映画は「わかりやすい」映画でもあると言えるから困るのである。余計な理屈を必要とせず(敢えて暴言を吐くが、シネフィルと呼ばれる人こそ北野武の映画に試されていると言えるのではないか?)その世界を柔軟に受け容れられるか否か。その意味ではたまの音楽にも似た素朴さと凶暴さ、そして技巧とセンスの塊なのかもしれない。

あの夏、いちばん静かな海。』 を観終えたあと、「素描」という言葉が頭に浮かんだ。デッサンを意味する言葉なのだけれど、「素」でそこにあるものを「描」いた作品という形容として使えるのではないかと思ったのである。この映画は言葉に依存しない。なにしろ、主人公は口を利かず外からの言葉に積極的に反応しようともしない(一応「聾唖者だから」という設定になっている)。その主人公をなぜヒロインが恋するのかも語られない。ふたりがなぜサーフィンに夢中になるのか、なった果てにふたりの関係はどうなったのかも語られない。全て、スクリーンに映されるものだけで暗示される。

……と書いて、「暗示」という言葉がいかがなものかとふと思ってしまった。むしろ北野武監督からすれば「そこに映したものが全てだよ、バカヤロー!」という「明示」とすら言えるのではないかな、と。主人公がゴミの収集作業で生計を立てつつサーフィンに夢中になる、その過程をいちいち言葉で説明したりせず真木蔵人の顔のアップや海における波の魅力的な満ち引きで説明する。それが(私たちの頭の中にイメージを植え付け、想像力そのものを誘導させるせいか)催眠効果めいたものとしてさえ感じられる。だからこの映画はとても心地よい。ブライアン・イーノの音楽のように。

蓮實重彦から始まったと聞くが、スクリーンに映ってしまったものだけを信頼し分析する態度を「表層批評」と呼ぶらしい。そこでは余計なドラマツルギーを持ち出して設定を論じたり、作品の政治性を云々したりする態度は戒められる。なら、北野武のこの映画こそそのような「表層批評」に相応しいと思うのだ。虚心に、どんな前知識も抜きにして観るならこの映画はゴダールばりの色彩美(いや、ゴダールほどキツくはないが)と、リアルでありながら同時に幻想的でシュールですらある会話、そしてところどころ笑いを誘うギャグが施された良質のコメディにしてラブ・ストーリーのように見えるのだ。

それにしても、である。全ての北野武作品を観たわけではないのだけれど、なぜ彼の撮る映画はこんなにも男臭いアナクロニズムに満ちているのか。この映画にしたって結局はフェリー二的な(?)マッチョで心優しい男と、その男たちを庇護する清純な女という図式で説明できるのではないか。フェミニズムを齧った者なら一笑に付すだろう。だが、そのようなアナクロニズムが恥ずかしいことは北野武とてわかっているはずであり、この映画のギャグ(つまり、粗暴さがしばしば笑いのネタになる現象)はそうしたたけしなりの「照れ隠し」として受け取りたいと思ってしまう。

そう考えると、この映画になにを見出すかというのは意外と私たちが潜在意識の中で「なにが映画にとって大事か」という問題を抱えているその写し絵なのかもしれない。つまり、スラヴォイ・ジジェク的に言えばこの映画は北野武が放つ「問い」であり、これが北野武の世界観ですというような「答え」ではないのだ。なら、この映画に私が畏怖を感じてしまう理由も見えてきたように思う。だって、語れば語るほど北野武の映画ではなくそれをダシにした自分の思想を露呈させるだけの映画となると、そんなものを平然と語るのは極めて恐ろしい(あるいは馬鹿げた)営みに終わることを意味するからだ。