跳舞猫日録

Life goes on brah!

2021/09/06

今日は遅番だった。午前中、村上春樹ねじまき鳥クロニクル』第3巻を読み終える。いや、この流麗なドラマの展開は「第3シーズン」と呼ぶ方が的確かもしれない。それはそれこそ『ツイン・ピークス』のようによくできているドラマだと思う。次にどうなるのか、こちらをドキドキハラハラさせるテクニックに秀でた作品だ。だが、このドラマは私たちをどこへ連れて行くのだろう。どんな教訓があるというのか。『ツイン・ピークス』がそうであるように、「仏作って魂入れず」なところがないだろうかと気にかかる。もちろん、ドラマに教訓がないからといってそのドラマが低俗ということにはならないのだけれど。

なぜ村上春樹の小説なんて読むのだろう? と考えてしまった。それは端的に村上春樹の文体が心地よいからである。色々他にも理由はあるけれど、まずその「心地よい」が来る。私は教養のために本を読む人間ではないのだ(だから、トルストイ三島由紀夫やバルガス・リョサの小説なんてろくすっぽ読んだこともない)。そして、語られるストーリーが哲学的で、独自の広がりを持つことも挙げられうる。ここではないどこかに連れて行ってくれる、と言えばいいだろうか。私の中には現実からの逃避願望があるので……ただ、それなら別に他の作家の本でもいいわけだ(それこそ川端康成『雪国』でも読んでいればいいものだが)。私のことは私自身が一番謎に思っていることである。

それでまだ仕事には時間があったので、『ミヒャエル・ハネケの映画術』を読む。ミヒャエル・ハネケという人は面白い。不謹慎な映画を撮る人ではあるが、ラース・フォン・トリアーのようにナチュラルというか天然でそうした不謹慎な価値観を信じている人ではなく、思慮深い哲人の佇まいを見せる。マスメディアが悲劇的なニュースしか放映しない現状を理知的に語る彼の姿勢に、例えばTwitterのタイムラインで日々日本の政治への嘆き節や他者を闇雲に攻撃するツイートばかり読んでしまう自分のことを考える(それが嫌になって、最近はTwitterはあまり真剣に目を通していない)。

最近読んだ梶村啓二『「東京物語」と小津安二郎』で、「真に満たされた者は、満たされているがゆえに、自分が幸福かどうかを鋭く意識する契機を持たない」と書かれてあった。私はこの日記でいつも「これが幸せなのだろう」と確かめる/再確認することばかり書いている。ということは満たされていないということだ。でも、幸せの中に居てもふと「これが幸せなのか?」と反省すること、自分を省みることはそんなに不自然なことではないだろう。私は長く不幸な日々、しんどい日々を過ごしてきてしまったのでそんな風に自分を幸せだと言い聞かせないと幸せを感じられない、そんな体質になってしまったようだ。まあ、のんきというか、それこそ「幸せ」な悩みなのだろうと思うのだが……。