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秋の日誌3

narushima1977.hatenablog.com

いや、もっと端的に言えば『何をモチベーションに生きているのですか?』かもしれない。

ぼくはこれまでの人生で、二度自殺未遂をしました。つまり二度、生きることを諦めました。そんなぼくにとって、生きる「モチベーション」というものはありません。ぼくは端的に、人生に生きる「意味」はないと思っています。

話が難しくなるのですが、ぼくは植草甚一という書き手が好きです。植草甚一はかなりの勉強家で、ジャズやアメリカ文化といった分野を在野の書き手の立場から掘り下げて研究し、それを文章にして名を成しました。ある日、ぼくは植草甚一について書かれていた文章を読んで膝を打つ思いをしました。ぼくについて書かれているかのような一節だったからです。長くなりますが引用します。

現在と過去とを、目の前の映像とそこから思い出される記憶の記述によって、何らかの体系に回収しないまま、そのままばらばらにつないでゆくこと。平岡正明植草甚一のこのような方法から、〈ニヒリズムの究極〉を読み取っている。ニヒリズムとは、真理や道徳や倫理や信仰に頼らずに、つまり人生の価値を客観的なかたちで承認するような考えには与しない、という選択である。ニヒリストはその場その場の個人的な歓びを、世界の果てにあるだろう至高の価値よりもはるかに高く見積もる。人間とは偶然に生まれた屁のような存在であり、その生き死にはどういったものであれ、すべて平等で、つまりすべて犬死にである――こういった思想がニヒリズムを代表するものであり、これは「いつも夢中になったり飽きてしまったり」とうタイトルを自分の本に付けてしまう植草にとっては、なかなか的確な形容だと思われる。彼の明るさを支えているのは、徹底したニヒリズムなのだ。(大谷能生植草甚一の勉強』)

「人間とは偶然に生まれた屁のような存在であり、その生き死にはどういったものであれ、すべて平等で、つまりすべて犬死にである」。なかなかお目にかかれない一節です。ですが、ぼくはこれを真理として重く受け止めたい。ぼくが生まれたこともまた、ぼくがぼくである必要なんてなかった。精子卵子の結びつきのタイミングひとつのズレで、ぼくでないぼくが生まれていた可能性もあった――つまり、その意味でぼくは「偶然」こうなった存在であり、こうなった必然を探すとすればそれは「神に選ばれた」「運命の導きで」といったフィクション/虚構の次元に答えを探すしかありません。それ故にぼくとは頼りない実存の根拠を背負った人間であると言えます。

さて、ぼくが46歳であることは前に書きました。ぼくが20歳の時、オウム真理教地下鉄サリン事件を起こします。社会を丸ごと転覆させるかのような騒ぎになりました。そんな時、ぼくは宮台真司というひとりの社会学者の言葉と出会います。宮台真司は「意味から強度へ」というスローガンめいた言葉を打ち出していました。なにかをやることに対してベタに「意味」を求めてはいけない。そうではなく、楽しいから、快楽を得られるからといった「強度」を大事にしなさい――少なくともぼくはそう受け取りました。今ではもう宮台自身も含めて誰も言わなくなってしまった言葉ですが、ぼくはこの言葉をなにかを考える際の判断基準にしています。

「ニヒリストはその場その場の個人的な歓びを、世界の果てにあるだろう至高の価値よりもはるかに高く見積もる」と、引用で記されています。その意味では、ぼくも「個人的な歓び」(つまり楽しさや心地よさといった「強度」ですね)を「至高の価値よりも」「高く見積もる」人間です。ぼくもまたニヒリストなのかもしれません。少なくとも、ぼくは先述したように生きることに「意味」なんてないと思っています。考えてみれば生命体とは無目的に進化を遂げる存在ではないでしょうか。ゴキブリやゾウリムシの人生(?)に意味なんてあるでしょうか。それと同じだと考えることはできないでしょうか。人間の生もまた、生命の充溢の結果として現れる現象に過ぎない……。

でも、ぼくは「意味」がないから生きることは無駄だなんてことは言いません。いや、「意味」がないから無駄なのだとしたら、なぜ無駄に生きてはいけないのでしょうか……このことを考えると話がまた難しくなるので控えましょう。生きるモチベーションについて考えていたのでした。ぼくは、自殺未遂の経験とこの「意味から強度へ」を踏まえて書けば、人は「生きているから生きる」のだと思います。身体が生きている、身体が生きることを欲している。だから頭も、私たちの自我も生きることを日々決意する――大げさかもしれませんが、ぼくはこの心身を分離して考える方法を採っています。身体が生きるから、生命も生きるのだと……。

今、朝の8時です。今日もぼくは仕事をこなします。ぼくはぼくの仕事がなんの意味があるのかわかりません。誰でもできそうな仕事だし、ぼくより優れた能力の持ち主(それは人間とは限らず、AIかもしれません)が現れればぼくの首はすげ替えられるかもしれません。でも、ぼくは職場にいけばぼくの身体が仕事モードに入るのを自覚し、ぼくの精神も仕事モードに入ります。身体に伴って精神が反応する……これは脳科学の知見と照らし合わせれば面白い見解が得られそうですが、到底ぼくの手に余る問題です。ぼくが言いたいのは、ぼくはぼくがコントロールするよりももっと豊満ななにかを持っている、ということです。内田樹に倣って「私の身体は頭がいい」と言えるかもしれません。