メンタリストDaiGoの意見が波紋を呼んでいる。私は当の動画を観たわけではない。文字起こしされたものを読んだだけなので誤解があるかなと思うが(誤解はむろん、私の側に責任がある)、私自身かつて生活保護で暮らすことを検討したことがある。通っていた病院の医師からそう言われたことがあるし、かつての知人からも「働かず、生活保護でラクして暮らしていけばいいじゃないか」と言われたことがあるのだった。だから他人事とは思えなかった。ただ、私は働いている。働けるなら働きたい。稼ぎは大したものではないのだけど……。
医師に「生活保護があるから、野垂れ死にということはないよ」と言われた時、私は絶望で目の前が真っ暗になるのを感じた。なぜなのか自分なりに言葉にすると、生活保護は本当に困った人が選ぶ最後の最後の手段という思い込みがあったからだと思う。雨宮処凛みたいな人は生活保護をもっとカジュアルに使って暮らそうと言っているし、海外でも生活保護をもらって音楽制作に勤しんだミュージシャンのインタビューを読んだことがある。生活保護に関するイメージも、今では随分変わった。だが、医師に言われた時は自分は本当にそんな瀬戸際まで追い込まれているのかと思って暗澹としたのだった。
なぜ働くのだろう……この問いは答えるのが難しい。「なぜ働く?」という漠然とした問いに対して、私は「『私は』働きたいから」という個人の意見/見解を語ることしかできない。つまり、問題は私の側に引きつけて考える必要がある。人生について考えるのと同じだ。「なぜ生きるのだろう?」「私は生きたいから」……そっくりだ。一般論として、みんなに該当する答えなんてない。私が私の人生を振り返って、私自身に当てはまる答えを出すしかない。ごまかさず、私自身の人生を見つめ直す必要があるのかもしれない。
今日は遅番だったので、昼に今福龍太『ジェロニモたちの方舟――群島‐世界論〈叛アメリカ〉篇』という本を半分ほど読んだ。広島に原爆を投下したアメリカ人が、自分の良心の呵責に耐えきれずしかしアメリカ国内で原爆を肯定するムードに押され、混乱したという逸話が紹介されていた。正義は相対的なものなのだろうか。私は、こんなに混乱した世の中であってもシンプルに考えたい。どんな人の人生にも意義がある。誰もがしかるべき居場所を与えられてこそ輝く。無駄な人生も死も存在しない。それで事足りる。そう信じている。