リチャード・リンクレイター『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』という映画を観た。この映画の中に、恐らくは学生気分をもっと味わいたいという理由からか三十路になっても学生たちに混じって野球をし続ける男が登場する。彼は最終的に学校から追い出されるのだけれど、私はこの男を嫌いになれない。学生時代や青春時代とは、そういう風に人をそこに留めておきたくさせるような魔性を備えているとも思う。だが、人はいつまでも子どものままでは居られない。私もまた然りだ。大人にならないといけない。
とはいえ、大人になるとはどういうことだろう、とも考える。私は大人になったのだろうか。子どもの頃から本を読むのが好きで読んでいて、その他音楽を聴き漁る日々が今になっても続いている。子どもも妻も持たないのは私が選んだ道だから誰にも文句を言うつもりもないが、未だに大人になったという実感がない。大人になる、というのはきっと頭であれこれ考えるのではなくて実際に社会に身を晒して、やらなくてはならないことをやって、そのプロセスの中に己を投げ込んで生きていくことなのかもしれない、と思った。
ああ、かつての自分は不平不満ばかり口にしていたと思う。社会について、自分について、不平不満ばかり……こんな仕事しかさせてくれない会社を恨み、こんな仕事しかできない自分を恨んだ。だったら辞めればいいようなものだが、辞めることもせず現状を変えることもしないで、ただ文句ばかり言っていた。今、心穏やかに過ごすことができて、不平不満の数もグッと減ったと思う。自分は弱いかもしれない。でも、弱いからこそできることもある。「弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えているのだ」(エリック・ホッファー)。
仕事をして、映画を観て、本を読む。そんな日々が繰り返されていく。この繰り返しに意味があるのか……別段批評家になりたいという欲もない。この日記だってなんのために書いているのかわかりゃしない。多分生きるというのは、人生の中に身を投じて瞬間を生きること、予測もつかない現実の危険の中に身を晒すことの謂なのだと思う。昔、「働かず生活保護で暮らすなり、親に寄生するなりしたらいいじゃないか」と言われたことがある。確かにそれは利口な生き方なのだろう、と思う。でも、私はその生き方を選ばない。なぜなのだろう。わからないが、私は自分にしっくりくるスタイルで生きることを選ぶ。