今日は遅番だった。実を言うと、昨日たっぷり寝たはずなのに今日、遅番の日のいつもの過ごし方としてイオンに行きそこでなにかしらプライベートな雑用をこなすかどうにかしようと思っても、ぜんぜん頭が働かず往生する。自意識過剰と言われてしまえばそれまでなのだけれど、たぶんこれは昨日の英語研究会のミーティングに参加させてもらった時にあれこれ過剰にいろんなことを接種しすぎて脳がまだオーバーヒートしているのか、もしくはまだ身体のふしぶしに疲労が溜まっていてそれが心持ちに作用しているのではないかと自分なりに勘ぐる。なんにせよ、いまこうして冷静に考えればやること(タスク)はあったのだった。小説の続きを書くとか、昨日の英語研究会の席でもらった課題の英文テキスト(たぶん『ハリー・ポッター』の一部分)の和訳をこころみるとか。あるいは木曜日にまたZoomで友だちと一緒に行うミーティングでぼくが担当することになっているプレゼンテーションの準備として、草稿を書くべきだったのかもしれなかった。ただ、さすがにもう半世紀も生きてきた身体に溜まっていた疲れはごまかしようがなかった。
そんなことを思案していた時ぼくはイオンのフードコートにいたのだけど、ふと目をやると着物(晴れ着)姿の女性が歩いているのが目に留まり、それでようやく今日がいわゆる「成人の日」であることに思い至ったのだった。知られるようにこの日は新成人を祝う日であり、おのずとぼくも自分自身が成人となった時期、つまり20歳だったころのことを振り返ってしまう。ご存知のように、当時ぼくは東京にあるとある私立大学の学生でそこで英文学を学ばせてもらい、村上春樹や柴田元幸やポール・オースターを読みふけるぼんくらな若僧として暮らしていた。ただ、東京は身寄りもない場所で、近くに頼れる親戚もいなかったので独りぼっちで孤独感をかかえたまま雑踏をさまよい歩いたことくらいしか思い出せない。それこそ高田馬場や池袋や渋谷といった街をそれこそポール・オースターや阿部和重の小説の主人公よろしく、やさぐれた気持ちを抱えてほっつき歩いたものだった。
そのころ、まだぼくには発達障害(自閉症)の診断は下りていなかった(そう晴れて診断が下りたのは21世紀になり2007年になってから、つまりぼくが33歳のころのことだ)。当時のことを思い出すこともめっきり少なくなってしまったが、思い出せるのは大学が一般学生向けに端末(パソコン)を開放して使えるようにしてくださっていたのでその端末を通してはじめてぼくはインターネットという広大な世界に触れたことだ(いちばん最初にアクセスしたのが敬愛する佐野元春のウェブサイトだった)。また、それ以外ではさっきも書いたが柴田元幸が翻訳した作家たちを主に読みふけって翻訳に手を染められればなんて身のほど知らずな夢を持っていたこと、そして当時音楽の好みということで言えばアシッドジャズやブリットポップを聴きあさっていてブラーやオアシスをことのほか好んでいたことが思い出される。渋谷系にも関心が向いていて、コーネリアスからピチカート・ファイヴ、EL-MALOや暴力温泉芸者の音楽なんかも試してみたことがあったっけ。そのころはまだ、そのあとになって就活でボロ負けしてそこからどんどんアルコールの底なし沼に溺れていって呑んだくれの生活を始めることとなるなんてこれっぽっちも予測できなかったのである……といったことを、いつものようにメモパッドに英語で書きつづった。
英語学習者向けのLINEのオープンチャットのグループにて、管理者の方に「発達障害と診断されて人生がどう変わりましたか」といったことを質問される機会があった。この日記でもつねづね書き散らしてきたことだけど、診断された直後、つまり30代をとおしてぼくはこの困難な特性(ただ、それは「障害」と言っていいんだろうかとも思ってしまう)を受け入れるのがほんとうにむずかしく、「そういうものだ」「この事実を引き受けて生きるんだ(生きていくしかないみたいだ)」とグイと「呑み込む」までには長い時間を要したのだった。40になってひょんなことからある自助グループと関わらせてもらうようになって、そしてぼくは今年50になる。あのころからかれこれ30年経ったことになるのか……30年をとおして、自分は変化しただろうか。いや、あのころ(つまりブラーやオアシスを聴き漁って、村上春樹を読みあさっていたころ)からたましいの本質的な部分は変わっていないようにも思う。まあ、そういうものなんだろう。大人なんだから、変われる自分と変われない自分の境目を見極めたいなあと思いつついまだにそれがむずかしいと感じるありさまなのだった。