いまは英語学習にたしかにはっきりした喜びを感じることができるけれど、昨日書いたようにこうしたことが可能となったのは10年前のことだ。ふと、ジョブコーチになんとなくお見せした英語を「きれいでわかりやすい英語ですね!」と褒めてくださったのだった……それが心に火をつけたと言えるのかもしれない。そして同時期にMeWeで英語のチャットにおいて友だちがクールな英語だと褒めてくれたことがとてもうれしかったのも思い出せる(忘れられるわけがない)。そうしたできごと以前、実を言うとぼくにとっては英語を学ぶことなんてただ「義務」「タスク」でしかなかったのだ。いい大学に入りいい生活をする、という程度の。ああ、なんとも浅はかだった!
でもいまは世界に対して言える。こうしたできごとあってこそ、ぼくの心は火をつけられてこうした自由になり解放された内的な境遇を得るための旅・冒険を始めたいと痛切に思うようにもなったのだ、と。でも……こうして書いていて、1つ疑問が浮かぶ。そこから逃げてはならない疑問……つまり「どうして『ペラペラ』になることが自由になることだと思ってしまうんだろう」という。矛盾するが、英語をそれこそしゃかりき・がむしゃらに学べば学ぶほどぼくはそうした英語のルールに縛られて身動きが取れなくなるということもありうる。「英語ができれば世界で通用する、日本なんて狭くてくだらない」式の思い込みにハマることだってあるだろう。日本文化を学び日本語を堪能することをとおして理解していくそうした虚心な態度・謙虚さを失ってはならないなと思った(ユーモアを忘れずに!)。振り返り……こうした複雑で矛盾した境地を見極められず、柔軟さ・臨機応変さを失ってかたくなに2つの言語の間で右往左往し振り回されたなと、また汗顔の至り。
職場で休憩時間になり、WhatsAppやLINEを通して友だちにメッセージを送る。ぼく自身の「メモワール(回想録)」を書くことについてだ。どうやって「愉快な仲間たち」といっしょにこの人生を生きてきたか、生きていくかを書きたいと思う。でもまた発達障害の病的なまでに飽きっぽくて気が散りやすい性分が祟るのかなとも思う。でも、昨日も書いたけれどせめて(親知らず抜歯のあとさんざん参ってしまったことが原因で)なにか1つ残せたらと思うようになった。プレゼントというか置き土産みたいに。だから過去にやってみて挫折した、好きな小説の登場人物に手紙を書くなんて形式はどうだろうかと考え始めている。ポール・オースターの小説『ムーン・パレス』の登場人物、マーコ・スタンリー・フォッグに宛てて。そんなことを夢想・妄想して過ごした。