過去にそれこそ働き蜂のように、ぼくは文学や音楽のマイナーな・ミニマルな知識の破片をせっせと集めて回る日々を過ごしていたことがある。その知識を元に、他人とネット上であれこれ議論を交わしたりもしたのだった。いまから10年前のことになろうか。でも、まだ当時ぼくは若く無知無教養で、人間的にもまったくもって未熟な若造に過ぎず落ち着いた・クリエイティブな議論などできるわけもなかった。議論の意味をまったく取り違えており、刺激的な議論を行う代わりに愚かしい口喧嘩・罵り合いに終始してしまっていたことを思い出す。日本語には「マウントを取る」という言い回しがある。他人を当人の相対的に豊かな・詳細な知識によって見下し打ちのめすことを言う(むずかしく言えば「睥睨する」ということになる)。ならば、ぼくは過去そんなバカな思いに取り憑かれていたとも言えるわけで、ならばここは素直に不明を恥じるしかない。
でも、そんなふうに他人に対して「マウントを取」ろうと熱狂的に・執拗にこだわっていたのはなぜなのだろうか。いや、当時のことはいまから思えば未知・無知であり(なにせ酒に溺れていて、いまから思えば赤面ものの誇大妄想に溺れていた時期でもあったので)「想像」するしかないのだが、でもいま反省するならやはりそれは「憧れを得たい」「尊敬されたい」とかそんな尊大な虚栄心に取り憑かれていたのかなあ、とは思う。オタク的な知識をたくわえて、披露することで他人に一目置かれたいとかなんとか。いや、他人にも応用可能な・普遍的な尻なのかどうかわからないのでこれは個人的な真実をただ吐露するにとどめたいが……でもなんにせよ、まあかんたんに想像がつくようにそんな「ちっちゃい」人間が尊敬されるわけもなく、ぼくはただおろかでブザマな人間性をさらしたままで終わったのだった。いまは、少なくともそこからマシになりたいとは思っている。
そしていま、Twitterでさまざまなユーザーが(なんだかとても熱狂的な「ファイター」たちが)かれらの実におそるべくすばらしい「正しさ」を以て他人にまさにマウントを取ることを目指しているのを目にする。いや、それはまあ(ぼくにはとうてい真似できないことなので)脱帽せざるをえない。ぼくはただ勘や本能がささやく・そそのかすままに無意識の次元に刷り込まれた言葉を言語化することを目指す。それはぼくの語彙を超えているので言葉にしづらく、したがって議論の俎上にはとうてい載せようがない。議論はつくづくヘタだなと自分をあきれてしまう。
