単純な生活

Life goes on brah!

2024/10/26 BGM: 真心ブラザーズ - 拝啓、ジョン・レノン

のっけから抽象的な一般論をかましてしまうと……世の中にはいろいろな理由から容易に答えなんて出せない・出すべきではない「タフな」難題というのがあるものである。たとえば、さんざん語ってきたとおりぼくは発達障害者でありそれもあって俗に言う「精神障害者」として国から扱われ、あまつさえ(「相対的には」軽度ではあれど)「障害者」のくくりで扱われていて、グループホームにも住まわせてもらっている。でも、それは「障害」と呼ぶにほんとうに値するのか。たしかに手足が不自由というわけではないが、田舎町に住んでいるのにぼくは普通の人たちが難なく使いこなすクルマをいまもってこの障害特性もあって乗りこなせないでいるのだった。

もしくは、ぼくは俗に言う「雑談」「チットチャット」が非常にむずかしい。たぶんこれはどんな話をしていても「ある『結論』もしくは『オチ』」が見えるか話の流れが読めるかしないかぎり非常に不安になり、なにを話したら場の空気が妙なことにならないかそれなりに「空気を読んでしまう」からだ。加えて、日々のタスクとしてぼくは眠りに就くためそしてうつ状態をやわらげるため薬を飲む習慣を持つ(このADHD特性をも持ちうる脳のせいで、どうしてもソワソワしてしまいやすらかに眠りに就くのがむずかしいのだった)。こんな困りごとはとても「タフ」だ。でも、ならば発達障害はそれ自体悪であり是正・否定すべき要素を持つということになるのか。ならないのか。

ざっとこんな感じで、ぼくの眼前にはたくさんの難題がころがっている。いや、問おうと思えば子どもじみて聞こえる・非常に繊細な課題「殺人ってなんで悪なの?」なんてことだって問える。こんな話題について、ぼくもできる限り誠実・微細にいったいどうしたらよりマシな答えにたどり着けるのか、そんなことをあれこれ考える。というのは、ふだんはチャランポランで実にスットコドッコイでデタラメきわまりないぼくであってもどこかでは「概して『正しさはいいことだ』『普遍的に通じうるものはおしなべて正しいと相場が決まっている(青島幸男が国会でそう決めたはずだ)』」と思っているからだ。でも、そんなふうなことがらを明確に・深く考え抜くぼくは往々にしてそんな考えのドツボにはまることでほんらいの意図すら忘れ、大局を見失ってしまいさえする。いや、むずかしい話をしてしまっているができる限りシンプルな比喩を使うなら、クロースアップで近づきに近づいて物事を微に入り細を穿ち観察しようとすることでマクロな次元の視点を失い、すべてを概観するのがむずかしくなってしまうことに似ているかもしれない。

過去にぼくは、まあとんでもないアホだったのでたった1つこの世には普遍的・絶対的な正解(いまの言い方で言えば「トゥルース(真実・真理)」)があるはずだという考え方に取り憑かれており、ゆえにその真理と少しでも矛盾を呈するものをすべて誤謬と切り捨ててしまっていた。イデオロギーに関する話題でさえもそんな排他的で狭苦しい心をさらしていたのである。そんな偏屈な考えをがんこに信じ込み、そして正しいと信じた考え(それこそニーチェウィトゲンシュタイン宮台真司宮崎哲弥)を丸ごと完コピするべく涙ぐましい・むなしい努力さえ惜しまなかった。ただ、まあ上にも書いたとおりぼくは(たぶん幸運なことに)ケアレスミスを連発するポンコツな脳を内包していたので、結局さじを投げてしまった。そんな脳みそ・あるいはインナー・ワールドに思いを馳せつつ思うのは、ではだったら(そんなふうに誰の考えも「完コピ」できないのだったら)いまのぼくは誰の・どのようなイデオロギーを信じているんだろう、ということだ。左翼だろうか。右翼だろうか。リベラル? 保守?

実を言うと、それこそこの問いは実にあらたな「タフ」過ぎる問いなのでなんの回答も書けない。ただ、こんなふうに答えるのが(ぜんぜん気が利いていないことを恥じるが)ぼくなりの態度となろう。ぼくはこの体に内在する勘や本能にしたがって動く。これはむずかしい話ではなく、端的に汗をかいたり快楽を味わったりぬくもりを帯びていたり、血が流れ涙も流れる「体」が命じることに(完全に服従はしないまでも)耳を傾ける態度だ。そして、脳の理性・論理的思考も手放さない。その両者のあいだで引き裂かれつつ、なんとか折衷(あるいは両者の「コラボ」)を試みてよりよい・マシな存在になることを目指したいと思っている。