今朝、仕事中にこんなことを心配してしまった。日々書いているこうした日記は他の方にとって、「わかりやすい」「やさしい」ものになっているんだろうかということだ。と書くのは、ときおり(いまもってなお)難解……と言えば聞こえはいいが要は支離滅裂で無意味なものになっていないかとも思ってしまうのだった。決まり文句として、「ほんとうに賢い人は難しいことをわかりやすく語る」というのがある。それはそうだとぼくも賛成する。が、ならばぼくの書きものが時折とても難しくなるのはぼくが賢くないということなのかなとも思う。少なくとも論理を追えばそういうことになる。
たしかに……ぼくは自分のことを賢いと思ったことは(たぶんだけど)ないかなとも思う。というか、過去を振り返ると愛読書だとか若かりし頃に読みふけった本だとかいったことを考えてもカントやヘーゲルなんてめくったことも手に取ったこともない。ドストエフスキーだって敬遠していた。浅田彰や中沢新一すら読まなかった。何に触れたかというとポップな音楽や文学、そして少しばかりのマンガだった。ブラー『パークライフ』を聴き漁って『新世紀エヴァンゲリオン』について考えて、村上春樹や阿部和重や保坂和志を読んだりといった感じだ(その後になるが『あずまんが大王』にハマったりもした)……悪いクセでまた独りよがりに固有名詞を並べてしまったが(ごめんなさい!)、要はそんな感じで高尚なものなんて通っていないので、考えがそんなに難しくなるわけがないのだった。40代になってウィトゲンシュタインを皮切りにニーチェを読んでみたり、大森荘蔵なんかに親しみ始めたりしたとはいえ。
でも、一方で考えがしばしばひどくややこしく抽象的になってしまう傾向があるのは否めないとも思う(あるいはさっき見せてしまったように「独りよがり」になる)。10代の頃のことを思い出すと、先生も含めてあらゆる人にぼくの考えがただ「意味不明だ」「ナンセンスだ」と言われ、冗談のネタにされたりもしたのを思い出す(当時のぼくは学校内では単なる「天然キャラ」のアホだったはずだ)。そんな感じの環境では真面目に他人とコミュニケーションを持とうと考えられるわけもなく、したがって断絶して本の中に逃げ込むしかなかった。
といった孤独な時期を過ごし……しだいに病的な考えが生まれ始めたのを自覚する。それは、コミュニケーションをゼロサムゲームとして捉えるという発想だ。ゼロサムゲーム、というとそれこそ難しいが要は「白黒」がコミュニケーションにおいてはっきりするということだ。コミュニケーションの場でうまく語れて場を圧倒させられる勝者と、説き伏せられ言いくるめられるしかない敗者が生まれると言えばいいだろうか。そんな場ではコミュニケーションは血なまぐさい「戦場」の様相を呈する……書いていてあまりにアホらしい極論なので恥ずかしくなってきたが、当時は大真面目にそんなことを考えていたのだ(こんな考えはたぶんぼくの発達障害も影響しているのだろう)。
いまはもちろん、コミュニケーションはファニーな遊戯(ゲーム)なんだろうなと思う。遊び心あってこそ楽しめる大人の嗜み、というやつだ。でも、こんな考えはぼくたちの間にある信頼関係があってこそ。言い換えれば、共通して楽しめるコードというか常識というか、基礎知識があってのことだ(それが暴走すると、さっきみたいな感じでマニアックな固有名詞を並べるぼくの悪いクセが出る)。でも、いまだって実を言うとそんな共通認識そのものを疑う悪いクセも出てしまう。ほんとうに通じてるのかな、とか。そんな感じで、疑ったり考え込んだりして考えが煮詰まる(という使い方は誤用だと知っているが、たしかにぼくの考えが「こびりついて焦げ付く」のを感じる)からこそ、書くものは難しくなるのかなとも思った。