跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/09/05 BGM: The Byrds - My Back Pages

9月に入り、日中はいまだ暑くしたがって半袖の服を着て過ごさないといけないにしろ、夕暮れから夜にかけての時間は少しずつ肌寒さ・涼しさが感じられるのに気づく。季節が夏から秋に変わりつつあるということのしるしだ。今朝、図書館に行きなにか見繕うことにしたのだけど(もうご存知かと思うが、ぼくにとってこの「図書館詣で」はスーパーマーケットや八百屋・魚やといったところで新鮮な商品を探すのと同じような意味を持つ)、岩波文庫から出ているジャック・デリダ『他者の単一言語使用』が並んでいるのを知って興奮する。実を言うとデリダの本は過去、まったくもって読んだことがなかったのでこれを機に借りることにした。

その後イオンでこのデリダの本を読み始める。こんかい守中高明によって訳されたデリダのこの本は(伝わってくるデリダの文体そのものは――実に繊細な日本語とは言え――いまだぼく自身にとっては抽象的で難解な日本語で書かれたものであり、したがってどこまで理解できたかおぼつかないにせよ)アイデンティティと彼・彼女が語る言葉についてであり読みごたえはバツグンだ。たとえば、ぼくは日本人であり日本語をしゃべる。だが、この言葉がクセモノだ。それはぼく自身のもの、と形容できるのだろうか。デリダの繊細で華麗な議論を追いつつ考えるに、その言葉・そのアイデンティティとは政治的なものではないか。というのは、ぼくが日本語をしゃべるという事実・前提条件は外部によって与えられたものであり政治的とも言える。コントロールが効かない、まったくもって不可抗力のまま与えられた条件であるからだ(だが何度でも言うが、このぼくの「読み」は誤読・誤解の可能性を十二分にはらんでいる)。

ぼくは哲学・思想について専門的に学んだ学徒ではありえない。また、そもそもデリダを読みこなせるほど賢くもないだろう。デリダの厳格な議論についていけたなんてこれっぽっちも思わないけれど、ぼくの中にある言葉たち(「単一言語」についてねばり強く考えたデリダの意図に反して、ぼくはついついぼくの中でミックスされてカオスとなっている「英語と日本語」2か国語について考えてしまうのだが)がたしかに外在する世界から与えられた物体・物質であると感じる。それゆえに異物であり、ぼく自身の思考を刺激し続ける。フランス語なんでできないのだけれど、ぼくはたぶんこの本を読み返すだろうと感じる。ウィトゲンシュタインを(これもわかりっこないのに)読み返してアイデンティティと言語の関係を自分なりに考えてきたように。これはライフワークやミッションの1つになりうるのかもしれない。

そんなこんなで夕食を摂り、友だちと共にZoomのミーティングを楽しむ。今回、それぞれのファニーなエピソードをシェアし合いそして役立つライフハック的な情報も学ばせてもらう(ぼくは前に書いたこまきときこ『つれづれ語学日記』の話を少しさせてもらった。この漫画にハマりつつある)。その後、ぼくたちが住む町のドライブインが少しだけ登場する、今秋公開予定の映画『ルート29』の話をする(「ルート29」とは国道29号線という意味だそうだ)。町興しにならないか、などと話をふくらませる。ミーティング終了後、次のこのミーティングでのプレゼンテーションの材料について考えていたのだけれど眠くなったのであきらめて眠った。気は若いが(だからデリダなんて読んじゃったりするのだが)、さすがに歳には勝てないのであった。