どうしてぼくは学ぶのか。毎日ぼくは英語を学び、そしてスペシャリスト(専門家)にも教授や先生(アカデミシャン)になるつもりなんてこれっぽっちもないのに読書を続けている。情けないことに、いまの段階ではこの問いにぼくは答えられない。学生時代、先生たちは大人になるとこうした学びというか勉強から解放されると説いていたのを思い出す(ある先生は、大学に行けば四年間は「遊べる」「ぶらぶらできる」とまでおっしゃった)。でも実際のところ、大学を出てからぼくは英語を学ぶことを始めて学生時代よりたくさんの本を読むようにもなったのだった。いや、裏返せば学生時代いかになにもしてなかったかということの証明でもあるのだけれど。
いま、ぼくはそれなりにヒマな時間を確保できている。そして、ある程度までの自由も生活の中で確保できている……もちろんこの「制約つきの自由(なんてヘンテコリンな表現だが)」を確保するためにぼくは働いたり納税したり、法を守ったりして責任・義務を果たす必要もあるのだった。でも、そうしてしまえば心のなかでいろんなことを自由にエンジョイできるのもまた事実。夏目漱石が小説や漢詩を書き書きどんなことをイマジネーションの中で考え抜いたか想像することもできる。ドビュッシーやサティや坂本龍一の曲で魂を癒すこともできる。清少納言が書いた『枕草子』から彼女の日常生活がどのようにワンダフルだったのか考えるのもいいだろう。その他脳科学や日本の歴史、あるいはコミュニケーションの哲学について考えれば考えるほどこの世界の重力圏から解放されてフワフワとしていられる――でも、他人と話す時にそうした学問に染まりすぎて難しい語彙を振り回すようになってはいけないとも思うのでそれも含めて面白いと思う。
町内にある1000円カットのお店で髪を切ってもらった(この物価高騰の折、それでもそのお店は1000円を守っていることが消費者としてはありがたい)。その後夕食を摂り、英会話教室に行く。そこで旅行について話す。この町にあるどんなレストランがおすすめで、どんな美味しい料理を食べられ居心地いい時間や雰囲気を過ごせるか。楽しいひと時だったことはいくら強調しても足りない。でも、もっと心を開いて自分を表現し自己主張していかないと……とも思った。その後クラスが終わったあと、その勢いもあってオンラインの友だちにぼくの髪型の自撮りを晒してしまった。後悔はしていない。