その昔、10代の頃にぼくが抱いていた夢・野望ときたら作家になりたいというもので、具体的には村上春樹にあこがれていたことを思い出せる。ベストセラー作家になりたい(いや、なれる)とさえ思い込み、そして同時に翻訳でも活躍したいとも思ったりしたのだった。その夢は木っ端微塵に砕け散り失意の時間を過ごさなければならず、酒びたりの日々を生きることとなる。でも、40の歳にこれじゃダメだ、酒はもう止めようと心の底で決意を固めてそして「盃を砕き」、断酒の日々を始める。その決意から9年が経ってしまった。
日記について書かなければならないだろう。そんな感じで、過去にぼくは「フィクション」の、つまりは嘘っぱちを書く作家にあこがれたのだった。でも、小説の草稿をせっせと書いてそれを人に見せたところ「もう止めなさい。あなたには向いていない」と言われてぼくは自分がなんの天分・天性の才も持ち合わせていないことを思い知ったのだった。ぼくは発達障害者なのでこのしっちゃかめっちゃかな脳が1つのことがらをじっくり考え抜くことをさまたげるのだ。ゆえに長い物語を破綻なく・淀みなく語り抜くストーリーテラーにはなれない。その代わり、毎日・毎朝短いことがらを書きつけてそれを日記として発表することは(相対的に)向いているのかもしれない。
不思議に思うのは、この日記の執筆があなたにどう見えるのかということだ。日本の中にいるとたくさんの日記が書かれていることがわかる。公的に・私的に。セレブの日記や文豪の日記から数えきれないウェブログ、はてはXやFacebookなどの書き込みにいたるまで。人は言う。この種の日記という形式は小説・フィクションにはかなわないと。たしかにぼくはフィクションを愛し畏敬の念を抱く。とりわけ、こちらを軽々と吹っ飛ばすような作品に(ぼくにとっては、たとえば村上春樹のメガトン級の作品がそれにあてはまる)。
でも、ぼくは言いたい。毎日、どんなだいそれた戦略や野心とも無縁に日々のことを書きつけることが大いなる達成に至らしめることだってありうる。読み込んできた本を振り返るに、文豪やセレブだって綺羅星のような日記を書いてきた(エリック・ホッファー『波止場日記』やアンディ・ウォーホル『ウォーホル日記』、『ゴンクールの日記』など)。日記はぼくにとって宝箱・宝石箱だ。そう信じる。