跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/07/13 BGM: Derrick May - Strings Of Life

詩を書くようになって、あらためてぼくは自分自身と詩の関わりについて考えるようになってきた。昔、大学生だった頃ぼくは先生に「本棚に1冊でもいいから詩集を置いて下さい」と言われたことがあるのを思い出した。昨日も日記に書いたけれど、ぼくの部屋の本棚を見ていると自分でも呆れるほどその詩集が少ないことに気づく。しかも買った詩集だってロクに読んでおらず、もっとひどいことに「あれ? こんな本買ってたっけ」と驚いてしまうこともしょっちゅうだ。例えばちくま文庫から出ている『ボードレール全詩集』や、あとは原書で買ったルー・リードの詩集など。存在すら忘れていた……要するに詩をこれまでずいぶん粗末に扱ってきたということで、遅まきながらこれから(いつまで続くかわからないけれど)詩の伝統に触れるということになる。過去にぼくが読んだ渡邊十絲子の『今を生きるための現代詩』を思い出す。そこで渡邊十絲子は、そんなふうな今の時代の詩の不遇について「学校教育を通した詩の出会いの中に不幸が潜んでいるのではないか」というようなことを書いていたと記憶している……こう書いてみて、もう一度その渡邊の本を読みたくなってきた。読めるようなら読み直そうと思う。

学校教育を通した詩の出会いというのは、素材としてあらかじめ「名作」「傑作」と定められた詩が与えられてその詩について「これは『よいもの』だ」と読み取ることが求められる。その「よいもの」を読み(悪く言えば強制的に「読ませられ」)、そしてそこから詩人・作者の心情を読み取ることが要請される。だが、渡邊は詩との出会いはもっと「個人的なもの」だと語っている。パーソナルな生活/人生における詩との「不意打ち」の出会いを通して、「名作」「傑作」とは判断もつかないそうした詩から受け取るインパクトをなんとかして自分の中に位置づけていくことで詩はその人にとってかけがえのないものになる。それが、詩を楽しむということの意味である……というようなことを彼女は書いていたと記憶している。つまり、詩は「わからない」ものかもしれないのである。すんなりと理解できる詩だけが詩ではない、と。これに関してぼくも共感する。と同時に、芸術/アートとはおしなべてそういうものではないかと思う。「わからない」ということであれば(これは想像・憶測で書くので間違っているかもしれないが)、ビートルズですら「わからない」芸術だった時期があったのではないか。あるいはあのビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』だって当初は「わからない」ものとして受け取られたと聞いている。

上に書いたような自分の無知・無教養を棚に上げて言えば、ぼくは詩のイロハを音楽から学んだ。日本のミュージシャンで言えばピチカート・ファイヴ佐野元春b-flowerなどから学んだと思う。海外ならモーマスやブラーが思い浮かぶ。別の言い方をすれば、ぼくはぜんぜん西脇順三郎エズラ・パウンドなんて読んだこともないのだった(ごめんなさい、これから頑張って読みます)。カッコつけた言い方をすれば「ストリート」「街角」に転がっている詩を学んできたと思う。学校教育で学ぶ詩ではなくポップカルチャーの詩、広告や雑誌に載っている詩を自分のものにしてきた。それを全肯定するつもりもないのだけれど(学校教育でみっちり詩のイロハを学んでいたらもっと高いクオリティのものが書けていたはずだと、今日も習作を書いて痛感したので)、でもそんな「育ちの悪さ」が自分なのだと思ってやっていくしかない。生きていく上で、ある程度は「あきらめ」を以て自分の限界と折り合いをつけることも大事というのがぼくが学んできたことだ。そして今日もぼくは1作詩を書いた。まだまだ「読めたものではない」詩でしかないが、書いていけば芽が出るかもしれないと自分を慰めて書き続けることに決めた。

夜、ミーティングに参加する。あろうことか昼の仕事で疲れていたこともあって夕食後「うとうと」してしまい、おかげでミーティングの開始時刻に思いっきり遅れたことで多大な迷惑をかけてしまった(ほんとうに申し訳ありません)。その後もZOOMが接続不良でトラブってしまい焦ったが、なんとか自分のプレゼンテーションを終えた。村上春樹ノルウェイの森』を読み、憧れていた東京生活に実際に足を踏み入れてそして現実のままならなさに戸惑い、苦い思いをしたこと……他の方も親身なコメントを寄せて下さって、90年代の日本の暮らし(まだインターネットが始まったばかりの時期だったので、リアルで人間関係を築くしかなく「オタク」な自分にはハードルが高かった)についてや阪神大震災地下鉄サリン事件についてなどにも話が及び有意義な会となったと思うのだけれど、どうだろうか。結局のところどこに行ってもぼくの生活に「このぼく自身」がつきまとうこと、そこから逃げられないことは確かだ。なら、これに関しても「あきらめ」を以て引き受けるしかない。ぼくはぼくの人生をぼくの流儀で生きていく、それこそが大事なのだろう……そう思ったのだった。貴重な機会にこの場を借りて感謝したい。