跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/05/15 BGM: Fishmans - いかれたBaby

今日は遅番だった。朝、いつものようにイオンまで行き、そこで三島由紀夫仮面の告白』を読み始める。三島由紀夫の実に真摯な筆が記す、同性愛的な初恋の思い出を読みながら私自身の初恋がいつだったのかを考えた。私の場合、そんな甘酸っぱい思い出があるのかどうか甚だ疑問に感じられる。確かにそんな初恋を感じたこともあったかもしれないけれど、同時にそうした初恋を抱くことを「許されている」とは思えなかったのもまた事実だった。自分は人を恋してはいけない……そんな思い込みにとらわれて、だから憧れのクラスメイトの女の子がいたとしても彼女に話しかけることも、あるいは近寄ることやひいては同じ空間にいることさえも「許されている」とは思えなかった。私は当時、自分のことをずっと「畸形」の「怪物」だと思いこんでいたから……実に醜い、異常な心理を持つ「奇人」だと思ってそれゆえにクラスメイトたちが織りなす社会に参加できず、疎外感を抱いて1人ぼっちで本を読んで過ごすしかなかったのだった。だから後に酒に溺れたところもあったのかもしれない。孤独を癒やすために酔いつぶれるまでずいぶん酒を呑んだものだ。

ああ、そんな風に自分のことを愚鈍で醜悪な怪物だと思いこんで……どうしてそんな人間に自分自身を好きになれるだろうか? そして、自分自身を好きになれない人間が他人を好きになることができるだろうか? いや、私にはわからない……私は十代の頃は自分をも他人をも、「愛するということ」がどういうことかぜんぜんわからなかったのでそれゆえに初恋の感情もどう位置づけていいかわからなかった。今思えば噴飯ものだが、私は確かに特定の異性に胸をときめかせたこともあったかもしれないと思うというのに、その感情を否定して「これは気の迷いだ」「自分は人を好きになってはいけない」と思ったりもした……自分のことをアセクシャル(無性愛者)だと思い込もうとしたりさえした。その一方で、自分の中に起こる確かな欲望をどう処理していいかわからなくて困ったりもしたっけ。こんなことを相談できる人がどこにもいなかったことをも、今になって思い出す。実にねじれた、苦しい初恋や青春をすごしたものだ……。

そしてふと、今日が私にとって大事な「畏友」である女性の誕生日であることを思い出した。ああ、その方との出会いがいかに衝撃的だったか、今でも思い出せる。彼女に私は確かに恋をしたのだった……40歳の時のことだ。そして、「どうせこんな私みたいな男なんて歯牙にもかけないだろう」と思ったけれどそれでも勇気を出して告白して……そしてそれは思った通り轟沈し、失恋に終わった。だけど、彼女が私に対して言った言葉は今でも私の中に確かに「刺さり」、「効いて」いる。彼女は「自分のことをそこまでボロクソに言うのはやめたらどうですか?」と言った……私は当時、ついつい自分を卑下し自虐的に考え込み、それゆえに人に対して卑屈に振る舞うどうしようもない「侏儒」だったと思うのだけれど、そんな私に対して彼女は厳しくも優しくそのように示唆してくれたのだった。彼女のコメントは、そして彼女の存在は今でも私にとって奇跡の産物であってくれている。ああ、世界にはこんなことも起こりうるのだ。アンビリーバブル。

そんなことを思い、ついつい目頭が熱くなってしまった。ああ、もし私が彼女と出会わなかったとしたら……そうであれば私は自分の発達障害をこんな風にまっすぐに見つめ受け容れることもできなかったわけだ。「自分は異常者だ」と思い込みじめじめした日陰で生き続けていただろう。あるいは、今のように英語で発信するということだってなかったに違いない。「こんな田舎者の英語が世界に通用する訳なんてない」と思い込んで……そう考えてみると彼女との出会いが私の人生のターニング・ポイントであったことを確かに思い知る……私はそう思い、そこでむせび泣いてしまった。「人生終わった」と思って、惰性で生きていた私にカツを入れてくれた彼女にLINEでメッセージを送った。彼女もまたこんな私のことを(おそらく)「畏友」と思ってくれているという、その事実に感謝しながら……ああ、今の私はそうして「畏友」に恵まれていて、ゆえに孤独ではない。自分はハードな人生を生き延びた。そして、その人生を生きたことは間違っていなかったと今日、改めて思ったのだった……こんな日に聴くフィッシュマンズはほんとうに沁みる。