跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/05/03 BGM: The Auteurs - Lenny Valentino

今週のお題「何して遊ぶ?」

今日は待ちに待った休み。天気も良く、絶好の行楽日和だった。朝、最上山公園に行く。バイクを飛ばして山の麓まで行き、そこから歩いて山に入る。するとそこはまさに異世界で、鬱蒼と茂ったもみじの葉のその鮮烈な青さが目を引く。こんな時でも音楽を聴いてしまうのが私の悲しい性で、ボーズ・オブ・カナダ『Music Has The Right To Children』を聴きながらメモパッドを取り出しアイデアを書きつける。自然はこの私から言葉を奪う。何か考えて言葉にしようとしても、ただ圧倒的な自然のダイナミズムにやられるだけでなかなかアイデアが湧かない。なのでただボーズ・オブ・カナダを聴いて、せいぜい「現実というかこの世界は『3D』なのだな」と思うことしかできなかった。前を見ても後ろを見てもそこには豊かなもみじの青々とした緑があって、私を囲んでいる。その緑が私を落ち着かせて、私自身が囚われていた観念や情欲の檻から私を解放してくれる。

ああ、ボーズ・オブ・カナダの音楽は実にすばらしい……何度も聴いてきた音楽だけど、こんなシチュエーションで聴くとまた違って響く。私の心はせっかちに動き、この風景を友だちとシェアしたいと気が焦ってしまう。なかなか「ぼんやり」「心を空っぽにして」とは行かず煩悩や懊悩に急かされる。写真を3枚撮影し、それをDiscordやMeWeやLINEなどでシェアする。こんな時代、『serial experiments lain』が言うようにこの世界はもうインターネットにすっぽり覆われてしまって、人と人とをつなぐネットワークがすべてを支配しているのを思い知る。即座に友だちからリアクションを得て、それで満足するのを感じる。承認欲求と言うのだろうか。また機会があったらこの山を訪れて、そして自然に浸りたいと確かに思った。保坂和志が小説で描写する鎌倉の自然のように、私もこの自然をこうして言葉にすることを訓練するのもいいかもしれないとも思う。私の今の言葉・語彙ではこの自然を表現できないと痛感させられた。

そして、ふとこの自然を見ていて中島義道ル・クレジオを引いて紹介していた「たまたま地球にぼくは生まれた」という言葉を思い出したのだった。悲しい(かもしれない)事実として、私は偶然/たまたまこの星の上に生まれた。そこにどんな意味もない。ただの両親の結びつきから生まれたひとつの生命の結節。しかし、こうした自然の緑が私の心を動かし、さまざまなことを考えさせる(あるいは言葉を奪う)その感動、その陶酔もまた私にとって切実な真実だ。今日は晴れているがまた雨だって降るだろうし、また夏だって来るだろう。そして星は回り、季節は過ぎる。山を降り、千円カットの散髪屋で髪を切ってもらった。そしてグループホームに帰宅し、ル・クレジオ『物質的恍惚』を少し読み返す。そこで展開するめくるめくイメージに打たれる。ル・クレジオをまとめて読むのもいいかもしれない……ああ、読書に関するアイデアならこんな風に具体的なものが次から次へと出てくるというのはなんと悲しい性だろう。なんのために自然を見たのだ、と呆れる。

昼寝をした後、谷崎潤一郎痴人の愛』を読む。この「痴人の愛」というタイトルを英語にするのは難しい(この作品はひねって『Naomi』というタイトルで英訳されているようだ)。「痴人」はただ主人公/語り手でありナオミの肉体美と悪魔的な狡猾さに翻弄される譲治だけのことを言っているのか、それとも譲治をそうしてたぶらかすナオミもまた「痴人」なのかわからないからだ。「愛」という言葉がタイトルに使われているが、私はむしろ譲治のナオミへの執心・執着を「依存」と解釈する。譲治のナオミ抜きでは居ても立っても居られない感情が、私自身がアルコール抜きでは過ごせなかった感情と瓜二つだと思ったのだ。『痴人の愛』を依存症を研究するために読むというのも面白いかもしれない。今、アルコール依存症予備軍はこの国に百万人ほど居ると今日の断酒会で教わった。多くの人は断酒会などにつながらないまま、依存症をなんとかする術を体得し得ないまま生きていくのだ、と。そう思うと私自身はそうした「依存」を(「とりあえず」止まっているにすぎないにしても)なんとかできているわけで、我が身の幸福に改めて感謝する。