跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/04/14 BGM: Seiji Toda - Slow Ballad

今日は遅番だった。午前中、グループホームの部屋の中に居るとまたおかしなことを考えてしまう。もし今日自分が死んでしまったら、というようなことを……そうしたアイデアは文字通りどこからともなくやってきて、そして自分を呑み込んでしまうのでそこから出ることはなかなか容易ではない。自分の人生はどうやって終わるのだろうか、と考えると仕事をする気もなくなる。だけどそれを堪えて外に出る。そしてイオンに買い物に行く。そうすると、イオンのゲートを潜った時に自分の中の別の人格が立ち上がってまったく違うことを考えさせてくれる。フードコートに行き、村上春樹の新刊『街とその不確かな壁』を読み始める。本を開いた時、確かに自分の身体が緊張するのを感じた。この本は自分の感情をどう変えるだろうか、と考えた。もし駄作だったら……怖がることは何ひとつない、と自分に言い聞かせる。初めて彼の本を手に取ったのが今から30年ほど前のことだ。あの頃と比べたら自分は成長して、強くなっているはずだと信じる。Spotifyでハンモックというグループの音楽を聴きながら読み始める。

『街とその不確かな壁』の第一部を読み終える。もちろん、全部読んでからでなければこの本の真価を評価することはできない。現時点で思ったことを書くとすれば、この作品は設定こそ『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を踏襲したところがあるのだけれど決して「守り」に入った作品、過去の再生産で終わる作品ではないと感じた。春樹の想像力は実に奔放に発揮されており、第一部だけの印象で言えばポール・オースター『最後の物たちの国で』やスティーヴ・エリクソンの珠玉の作品群をも彷彿とさせるとも思う(むろんそれらの「猿真似」でもありえない)。この作品は今後私をどこへ連れて行ってくれるのだろうか、とワクワクするのを感じた。私はついついせっかちに速度を上げて読んでしまう人間だが、この本は少しずつゆっくり楽しみたいと思う。確かな円熟を感じる。

『街とその不確かな壁』はそれにしても、英語に訳すことが難しいのではないか。春樹はこの作品で一人称を少なくとも2つ使っている。「ぼく」と「私」だ。一人称が2つ使われる場合、オーソドックスに考えればそこには2人の人間がいて両者が代わる代わる「ぼく」や「私」の視点から語っていると考えられる。そうでなければ1人の人間に内在する2つの人格か。どっちにしても主体は2つ存在するわけだ。ならばこの作品で「ぼく」と「私」という主語で語る存在の正体はいったい誰なのか……英語に訳す場合、主語を「I」にしてしまうとこの分裂が見えづらくなる。その意味ではこの作品は日本語の機能をフルに使いこなすことで日本語の限界に挑んでいるとさえ言えるのではないかとも思った。春樹の日本語はアメリカ文学からの影響が濃いとされているが、今回はそうした呪縛から抜け出ようとしているのか?

仕事に入る。入ってしまえば、朝考えたようなくだらないアイデアは消え去る。今日はジョブコーチとの面談があった。仕事上の悩みごとについて話す。入っていただけたことで問題が少しずつ解決されていき、働きやすくなるのを感じている。ありがたいことだ。仕事のことのみならず、私生活の金銭管理についても相談に乗っていただけた。夕方の休み時間、ふと『街とその不確かな壁』のためのプレイリストを作るのもいいかもしれないな、と思い始めた。このワンダフルな作品の読書を彩る音楽は何かないものか……私ならレディオヘッドワールズ・エンド・ガールフレンドのような音楽を挙げるだろう。あるいは戸田誠司アンダーワールドエイフェックス・ツイン……自分が闇雲に音楽を聞いてきたことはこんな形で活きてくる。それを思うと人生とはほんとうに「わからない」ものだと思った。