跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/01/16 BGM: U2 - Where The Streets Have No Name

今日は休みだった。朝、総合病院に行く。そこでドクターと会って自分自身の問題を話す。夜眠れないことを打ち明けると、散歩やストレッチを薦められる。身体を動かすことを始めてもいいのかもしれないと思った。その後薬をもらって近所のイオンに行き、そこで中島義道『哲学の教科書』を読む。改めて読み直すとこの本が今の私自身の関心のある「自分とは何か」「言葉とは何か」といった問題に相当に肉迫していることに気づく。昔この本を読み耽ったことがあるので、知らず知らずのうちに影響されていたのかもしれない。私にとってはこの本が語るように、今日が昨日になり今が過去になること自体が不思議なことだ。もちろん私が考えたところでその謎が解明されるわけもない。だが、考えることを止められそうにもない。哲学病、なのだろう。

イオンの中の未来屋書店に行き、そこで井手正和『発達障害の人には世界がどう見えるのか』という本を買う。さっそく読んでみたのだけれど、脳科学の見地から発達障害者の脳が定型発達者の脳とどう違うのか、多彩な実験を基に解明した本であり読み応えを感じる。しばしば私は、自分自身の感覚が他人にも共通の「デフォルト」なものであると信じてしまう。だがそんなことはなく、他の人は他の人の知覚を基に生きている。つまり、私たちはそれぞれまったく違う知覚の仕方で生きているということになる。そしてそれは何らおかしなことではなく、その人の「個性」に属することなのだということになるだろう。

この本では時間の感じ方についても語られている。私の体感する時間と他人の時間が違うかもしれない、と。例えば野球のエキスパート/達人の言葉として「ボールが止まって見える」というのがある。達人の時間の感じ方として、つまりひとつの時間の捉え方としてこれはリアルなものなのかもしれない。私自身は時間というものを実に短くしか捉えられず、1年後のことなど計画を立てられたことがないのだけれどその原因もこうした「時間分解能」という概念が説明するのかもしれない。そう思うと実に得難い本を読んだと思った。井手正和の他の本を読み、もっと自分自身の体感する世界や時間の感じ方をこの日記で記すことが他の発達障害者にとって参考になりうるのかもしれない、と思う。小説として書いてみようか?

夜、特に何もしたいと思えずダラダラと過ごす。そんな時はロクなことを考えられない。フェルナンド・ペソア『不安の書』を読み返しながら、こうして何度も読んだ本を改めて読み返す人生はいかがなものかとも思う。読んだことのない本はまだまだある。トルストイディケンズバルザック……だが、そうした本を読みたいとも思えない。図書館が開いたらラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』を読みたいとも思い、結局自分は何者にもなれなくても読みたいものを読み、生きたいように生き、極めて要領の悪い、実にコストパフォーマンスの悪い人生を生きるのだなと思ってしまった。ああ、それも人生。