朝、ふと見たニュースに言葉を失う。高橋幸宏が亡くなったとのこと。私は高橋幸宏のソロや多彩なプロジェクトは追えていなくてせいぜいYMOを聴き込んだだけという程度で、つまりは「にわか」に過ぎない。だけどそのYMOを久しぶりに聴き返しながら、改めて彼らが絶妙な才能のぶつかり合いの中にあったことを再確認する。私はYMOは日本のビートルズと呼ばれるに相応しいと思っている。ワールドワイドに名高い坂本龍一やアンビエントサウンドにおいて深遠さを見せつける細野晴臣とタメを張れるポップセンスを発揮した高橋幸宏の偉大さを私はいつまでも記憶するだろう。あのソフトな声も含めて。合掌。
今日は発達障害を考えるミーティングだった。ZOOMをアップデートして参加する(パソコンのスペックが追いつかなくなってきたようだ。貧乏は辛い)。私は木曜日に行った別のミーティングでのプレゼンテーションである「タイパ」について話した。参加者から活発な意見が出てくる。堀江貴文的な「修業は時間の無駄」という意見に対して、「それも一理ある」という側面と「そこまで言うか」という側面の両端から論じなければならない(つまり、一概に正しいとも間違っているとも言えない)という意見をもらった。それはその通りなので、自分の意見が「タイパ」にとらわれじっくり考える時間と手間を欠く短絡的なものではなかったかと反省した。複眼思考(山崎浩一)を大事にしたい。
そのミーティングが終わったあと、時間が空いたので図書館に行きFacebookで薦められた木村敏の本などを借りる。そして自分だけの時間を楽しむ。下條信輔『サブリミナル・マインド』を読み認知的不協和理論について学ぶ。自分の中に相矛盾する意見を持つことができず、自己正当化に走ってしまう心理。例えば「酒の呑み過ぎは体を壊す」「酒を止めなければ」という心理と「酒は百薬の長」という2つの見解はどこかでぶつかる。ならば必然的にどっちかが勝つ。私自身数え切れないほどこの矛盾する心理にぶつかり、無理やり「酒は健康にいいんだ」と思い込もうとしたなと苦い記憶を反芻する。
下條信輔の本は実に多彩な実験データを引き、そこから私たちの認知の複雑さや(敢えて言えば)曖昧さを引き出す。私は自分自身を1個の人格/1個の主観として捉えている。だが、私自身が本当に私のことを一番良くわかっていると言えるだろうか。記憶や知覚は間違えたり嘘をついたりすることがある。あるいはタイトルにある「サブリミナル」効果によって騙されることもある。私自身、自分の世界の捉え方が他人と違いうる可能性について考えさせられる。この思索を突き詰めていくと「自分が見ている赤と他人の赤との違いは何だろうか」という「クオリア」の話題に至りうるのかな、とも思う。そこからウィトゲンシュタインの哲学まではあと一歩。「つながってきた!」と思い嬉しくなる。
*先日の小坂井敏晶『神の亡霊』について書いた記述(2023/01/13)に小坂井敏晶氏自身からコメントをいただいた。私自身の読みが粗かったかと思う。それについては恥じ、読み返して考え直したい(刺激的なコメントだったので、そのことと「二人称の死」問題について改めてこの日記で取り上げたいと思っている)。ありがとうございました。