跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/09/01

BGM: Joe Hisaishi "Kids Return"

今日仕事中、同僚の方に怒られる出来事があった。忙しかったし私に落ち度もなかった(と思う)ので私もつい言い返してしまったのだけれど、そのことについて少し考えた。というのは最近ネットで心ない言葉をかけられたことがあって、その言葉には傷ついたし腹も立ってスッキリしなかったのだけれど、この「違い」はどこから来るのか考えたからだ。なかなか興味深いことだと思う。考えられるとすれば、同僚の方は私と顔なじみなのでその方のことを知っており、それなりに信頼できる(友だち、というわけではないにしろ)ということがあるだろう。

あるいは、ネットの言葉は(トートロジーになるが)言葉として現れる。「バカ」「アホ」といった言葉がそのままダイレクトにこちらに伝わるわけだ。それは衝撃的であり、インパクトもあるだろう。リアルの言葉は発言者の顔が見える。こちらから言い返すこともできる。ネットは言いっぱなしで逃げることも可能だ。そこに違いがあるのかもしれない……と、まとまらないまま書いてしまったが、リアルの関係とネットの関係はこうして考えてみると別種と考えた方がいいのかもしれない。ネットでは見知らぬ人間に向かって平気で毒を吐けるが、リアルではそうはいかないというように。

ネットではどうしても、リアルのようにある程度取り繕って振る舞う(相手を意識して自分の言葉に気を遣う、というように)という状況ではないために「素」の自分というか裸の自分自身を晒してしまう。それも傷つく原因になりうるのかもしれない。いずれにせよ私は(いつも書いていることだが)基本的には弱っちい人間なので、ネットの罵詈雑言の応酬に慣れることは到底できそうにない。というか、そんなものに慣れても一文の得にもなりそうにないので「君子危うきに近寄らず」の精神でネットから距離を置くのが吉かなとも思ったのだった。

相手の顔が見えるコミュニケーションと、顔が見えないコミュニケーション。その違いというのも大事なのかもしれない。エマニュエル・レヴィナス倫理学めいた話になるが、顔が見えず言葉だけで通じ合うコミュニケーションでは相手の気持ちを推し量ることも自分の気持ちを伝えることも難しくなり、勢い罵詈雑言を放ったり傷ついたりということになってしまうのかもしれない。ともあれこういう出来事があったせいで、つくづく自分はネットに向いていないのかなとも思った。まあ、ネットが孕む暴力性に留意して生きることもひとつの知恵なのかもしれない。