跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/06/13

今日はフェルナンド・ペソアの誕生日だという。たまたまそのペソアの『不安の書』を読んでいるので、こんなこともあるのだなと思った。『不安の書』はストーリー展開が面白いわけではなく、むしろそのあまりにも繊細な感受性ゆえに綴られる生きづらさと人間存在の悲しさによって読ませる。私のこの日記も前にペソアの文章に似ていると言われたことがある。私はペソアよりも生きることをもっと楽天的かつ単純に捉えたいと思っているのだけれど、ペソアみたいに自分の中で静かに狂気を飼い慣らしているという点では同じなのかもしれない。

朝は苦手な時間帯だ。じっとしていると、このままこんな仕事をして一生を終えてしまうのだろうかと考えてしまう。そうすると自分の人生がひどく味気ないもののように感じられる。人が生きるにはそう大した夢や希望なんてものはいらない、と思う。ただ「生きるために生きる」という事実を噛み締めれば充分だ、と。だが、もう一方では人には夢や希望、あるいは物語は必要だとも思う。私はどんな夢を持っているのだろうか。酒に飲まれていた頃はこんな人生にはどんな夢も希望もないと思い込み、腐っていたのだけれど……。

モーマスという私の好きなシンガー・ソングライターの音楽を聴きながら、『不安の書』を読み古井由吉『仮往生伝試文』を読む。こういった本にしても、読んでも一銭も儲かるわけではないのにどうして読んでしまうのだろう、と思う。理由なんてない。本を読むことに意味なんてない。ただ、読んでいる間は充実感を得られる。どうせ時間を過ごすなら、楽しく過ごしたい。そう思うから私は夏目漱石を読むのだった。そして、こうしていろいろなことを考える。そして書く。書くこともまた、意味なんてない。ただ、生きている上で書かなければならないと思ったことを書く。

LINEのオープンチャットで、今日が誕生日という人のLINEに触れる。私の誕生日も近づいている。今、若い日々を謳歌している人たちのことを考える。若い頃、確かに私にとってさえもあらゆることがワンダフルだった日々があったことを思い出す。面白い音楽が次々とリリースされ、読んでも読んでも読み尽くせない面白い本に触れて……実を言うと、私には青春はなかったと思っている。ずっと呑んだくれた日々を過ごして、ただ死ぬまで待ち続けるだけの人生だった、と。でも、運命的な出会いがあって今はまったく違った日々を歩めている。ああ、人生はミステリーだ。