跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/02/04

今日は遅番だった。朝、関川夏央『人間晩年図巻 2004-07年』を読む。上手く歳を取るとはどういうことなのだろう、と考えさせられる本だった。私は今年47になるのだけれど、情けない話だけれど未だに大人になったという気がしない。独身で気ままに生きているせいか、子どもじみたところが残っているなと我ながら呆れることもある。読む本こそライトノベルを読まなくなり渋い文学書を読むようになったし、音楽も昔みたいな流行りの音楽ではなく古いジャズを聴くようになった。もう新しいものには感性がついていかない。そんな変化は自覚できる。

『人間晩年図巻』で綴られる有名人の人生はなんだか、チャップリンの至言「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」を思わせる。関川夏央の温かいタッチの筆致にかかれば、ロングショットというか俯瞰で捉えられた様々な人生のおかしみが温もりを以て伝わってくる。例えばフランソワーズ・サガンのように若くして大成功を収めた人であっても、「晩年」は苦労したという話を読むと本当に人生にとって幸せとはなんなのかわからなくなってくる。必ずしも「成功が幸せ」とは言えないのではないかと思えてくる。

かつて、私は「成功が幸せ」と思い込んでいた。ビッグになること。具体的には作家になることが全てであり、なれないなら自分の人生には意味がない、と。そして、なれそうにないという現実にぶち当たり、ならば生きてきた意味がないと思って死を望んだ。だから酒を呑んだわけだ。だが、今はそんなたわけたことは考えていない。私は遂に何者にもなれずにこの人生を閉じるのかもしれないが、しかし何者にもなれなかったならなれなかったなりに試行錯誤を繰り返して、ともかくも与えられた生を生きている。その手応えは確かに感じる。

ああ、死を望み、生きているのは所詮惰性でしかなかった日々……大量の酒を呑み緩慢に自殺しようと思っていた頃のことを思い出す。結局死ねずにこの歳まで生きてしまった。40代というと昔は想像が全然及ばない領域の話だった。その40代になってみると今後、5年後や10年後自分がどうなっているか全然わからない。多分50代になっても60代になっても、自分は上手く渋く歳を取ることもなく相変わらずたわけたことを考える爺さんになっているのかな、と思う。ピチカート・ファイヴを聞いたり片岡義男の古いエッセイを読んだりしながら。