跳舞猫日録

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ホン・サンス『それから』

ホン・サンス『それから』を観る。『それから』といえば当然夏目漱石の名作が連想されるわけだが、本作にも夏目漱石の名前は登場する。その漱石のことを、かつてとある出版社が「超弩級のロマンティスト」というキャッチコピーを付して紹介していたのを思い出す。ホン・サンスの映画は『冬の浜辺でひとり』しか観ていないのでこんなことを語るのはもちろん早計というものだが、私はホン・サンスの映画もまた「超弩級のロマンティスト」が撮った映画ではないかなとも思ったのだった。その意味で、漱石ホン・サンスは近い位置に居るのではないかと(少なくとも私の中では近い)。


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小さな出版社の社長の男が居る。そこにひとり、女性が現れる。彼女は出版社で採用される予定の女性だった。だが、社長が書いた手紙を誤読した社長の妻が乗り込んできて彼女をひっぱたいたところから事情はおかしくなる。その手紙は全く別人のために書いたものだったのだ。そんな彼の前に浮気相手が現れることから事情がおかしくなる……というのが『それから』のプロットである。ホン・サンスという人は男女の心の機敏を描くのが巧い。確かに漱石に惹かれるだけのことはあるな、と思う。漱石もまた繊細過ぎるほど繊細に心の揺れ動きを記録し、発表した人物だったのだから。

ホン・サンスのこの作品を観ていて、断酒している身としてはややバツの悪い思いをしてしまったというのも正直なところだった。それだけ彼らは(韓国の伝統的な文化故なのか、それとも単に彼らがエピキュリアンだからなのか)酒をよく飲むのだ。そして、シラフの状態でも彼らは「神」はどうとかいう神学的な(?)トークを繰り広げる。前に『冬の浜辺でひとり』について書いた時に「メンヘラ」という言葉を出して語ったことがあるが、同じく『それから』の登場人物たちも生きづらそうに生きており(だから酒に走る?)、その心理を切々と吐露する。それは時に議論にもなる。

確かにその意味では漱石の作品にも似ているように思われた。漱石もまた作中で議論を交わす人物たちを描く。男女のエゴを描き、そのエゴ故に立ってしまっているキャラクターを持つ登場人物たちが譲るようで譲らない言葉を交わす。そこで展開される議論は天下国家を憂うものからごく身近な話題に至るまで幅広い。ホン・サンスもまた(くどくなるが)登場人物たちに雑多な話題を語らせる。そこが漱石と似ていると思った。俗物というか、登場人物たちがスノッブなところも似ていると思われたのだった。彼らはこの映画の中では出版社が主催する文学賞で成功することを目指し、名乗りを上げんと目論む。

そうした対話を重視する姿勢を傍らから支えるものとして、彼独自のカメラワークである「間に机を挟んで2人が会話を交わす」という構図が挙げられよう。監督はこの構図が本当に好きだ(そして、その構図で長く回して一癖も二癖もある「議論」をカメラの中に丸ごと収めてしまう!)。温和な対話が相互の心理を尊重する姿勢を示す小津安二郎的な姿勢とは異なるホン・サンスのそれは(と書けば、小津ファンからは「悪ふざけも過ぎる」と言われるだろうか)極めてテツガク的な「ダイアローグ」を尊重した姿勢にも思われて興味深い。この監督、哲学や文学を学んだのだろうか。

結局ロマンスは始まるようで始まらず、しかし私たちの人生はどんなことがあっても「それから」がある。終わらず、「それから」どうなったかを確認して生き続けなければならない。それが私たちの人生というものだ。そこまで踏まえて監督はこの些細な痴話喧嘩と色恋沙汰に満ちた佳編を撮ったのかもしれない。そう考えてみればこの監督はなかなかのやり手であると言える。だが、私は手放しで評価することはできないかなとも思った。男のクズさを描きたい姿勢はわかるのだが、女優がそのクズさの表象を支える故に無垢に描かれすぎているのではないかな……というのは流石に穿ち過ぎか。