跳舞猫日録

Life goes on brah!

2021/11/19

意識とはなんだろう。自分とはなんだろう。そんなことをずっと考えている。素人考えなのでどこにも行かない……ダニエル・デネットの本を読めばいいのだろうか。思えばずっと自分はこの難問と向き合ってきたのだった。人からずっと変わり者と呼ばれ、狂人のように見做され……それでも私は自分にとってしっくりくる道を歩むしかなかったので他の同級生がドリカムを聴いていても自分はピチカート・ファイヴを聴き、よしもとばなな村上春樹を読んで過ごしてきた。「あいつは自分だけは他人と違うと思っている」と言われつつも……。

海外のとあるエージェントからメールが届いた。実を言うと、小説を書いてみてはどうかというオファーを受けていたのだった(海外にもカクヨムのようなサービスはあるのだった)。だが、私は集中力が続かず長いものを書くことはできないので、「貴重な時間を私のために割くのは申し訳ない」と断っていた。しかし「いや、書いて欲しい」と言われた……それで、ひとつアイデアが湧いたのだけれど、もちろんそれを具現化できなければ話にならないので時間が取れたら書いてみようかと思う。ダメでもともと、と思って。

思い出すのはほんの数年前のこと。私はシェアハウスに住まわせてもらって、自炊を試みたこともあった。懇切丁寧に味噌汁を作ったりご飯を炊く方法を教えてもらったりして……結局今のグループホーム暮らしになってからはそういうこともしなくなったのだけど、お世話になったことは忘れがたい。意識しなくともこういう経験は力になっている、と思う。これも小説に書けないだろうか。とにかくその時その時最善を尽くして試みたことが、思いも寄らない形で今に繋がっている。そのトライアル・アンド・エラーこそが人生なのかもしれない。

私は恥ずかしながらメタボの傾向があるので、3ヶ月で1キロ体重を落として正常値に近づけるべく健康指導を職場で受ける機会があった。そこで食生活の見直しと運動の習慣化の相談をする。昔、もっと太っていた時にサンドイッチを食べていてマヨネーズがカロリーの取り過ぎになると指摘されたことを思い出してそんな話をするとびっくりされてしまった。逆にサンドイッチは弁当なんかよりもカロリーを控えるための効果的な食べ物だというのだ。そういうことなのでサンドイッチを食べてみることにする。さて、吉と出るか蛇と出るか。

2021/11/18

ふと思ったのだけれど、私のことをいじめた人、私に辛くあたった人は、いまどうしているのだろう。私のことなんて忘れてしまっただろうか。私も、そういう人たちのことを忘れたり許したりするべきだろうか。ボルヘスだったか、「忘却こそ最高の復讐である」と言ったのは……私も真剣にそういういじめっ子の家に火を付けることを考えていた時期がある。人にこのことを話すと「深いね。でも、誰だって思い出したくない過去はあるもんだよ」と言われた。誰もが誰かにこんな恨みつらみを抱いて生きている、とでも言うのだろうか。

自分自身とはなんだろうか、と考えた。どうやったらこの掴みどころのない自分自身を把握できるのか。それは無理なのかもしれない。絶えず動く川の流れを捕まえたいとか、絶えず移ろいゆく時間を捕まえたいとか思うのがナンセンスであるのと同じではないか、と。ということは自分とは流体というか液体なのかもしれないな、と思った。「Be Water」というのは香港民主化運動で使われたスローガンのひとつだったと言うが……液体の心を私という肉体の容器が持ち運んでいる、とイメージしてみる。暇つぶしとしては面白い。

中島義道『七〇歳の絶望』という本を読んだ。中島義道もついに70歳の古希を迎え、それでも死や時間といった不条理について哲学的な思索をめぐらせる。「人生のすべての苦しみは『私がいる』と思い込んでいることに帰着する」という箇所が引っかかった。ここに居る自分自身に執着せず、自分なんて居ないと考える……時折、私はこう考えてみる。例えば村上春樹金井美恵子の小説を読ませれば誰でも私の代わりは生まれうる、その意味でオリジナリティなんてない人間なのではないか、と。自分とは空っぽで他人から与えられたものでできあがっている、と。むろん、そう考えても「人生のすべての苦しみ」が解消されるわけではないが。

私という人間をどう捉えるか。天上天下唯我独尊という言葉があるが、ここに居る自分の代わりを誰も生きられないという意味では自分は特別である。だが、その自分がどれだけ足掻いても自分が語った言葉や為したことは他人からは「ある人が為したこと」と平凡に受け取られてしまう。自分にとっては自分は特別である。だが、他人にとっては自分は平凡である。なら、自分にとって他人とは? そんなことを考えてしまった。自分が70歳になったら一体どんなことを考え、どんなことをして暮らしているのか。古井由吉は70代で『白暗淵』という目が眩むような傑作を残したのだが……。

2021/11/17

今日は珍しく忙しい日だった。休みだったのだけれど、午前中図書館に行き本を借りた。図書館の時計が10時を指していたので、時間とはなんだろうかと素人考えであれこれ考えながらバイクを走らせる。借りたのはフィリップ・フォレスト『シュレーディンガーの猫を追って』という小説だ。時間について考えるなら、中島義道の本を読むべきだろうかと思った。哲学的に「今」とはなにか、過去や未来とはなにかを考えるという……あるいは科学の見地から時間にアプローチするのも面白いかもしれない。いずれにせよ私の頭では追いつかない問題なのだけれど。

11時に人と会った。今の職場で就業支援員を利用させてもらうための方法をあれこれと考える。私は発達障害を抱えており、それをオープンにして働いている。発達障害者が働きやすくなる職場が同時に定型発達者にとっても働きやすい、そんな職場になりうるという理屈はなかなか受け容れてもらえない。画餅というか、夢物語のように思われてしまうのだ。もっと今の職場で働きたいですか、と言われる。人間関係において苦労していることを除けば今の仕事は自分に馴染んできたので、もっと働きたいと答えた。さて、これからどういう戦略を練ろうか。

2時から近所のお寺でミーティングがあった。私は、最近見た映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』の話をした。そして、大人になるとはどういうことなのか考えたことも話した。突き詰めれば自分とはなんだろうか、と……私はグループホームに居る時はグループホームの自分が居て、仕事をしていれば仕事の自分が居て、ミーティングに参加していればミーティングの自分が居る。その人格は場所に応じて立ち上がるようなのだ。それを無理に分けなくてもいいのではないか、と言われたのが印象的だった。場に応じて立ち上がる自分は、しかし繋がっている自分でもある……。

生まれてきた……それが自分が犯した最初の罪だ、と考えていたことがあった。そう考えると、その自虐的な感覚が懐かしく感じられた。そうだ、ずっとそんなことを考えてきたのだ。そんなことも話した。ミーティングでは他の参加者から、私たちは大人になるというより人間になることを考える方が大事だという意見が出た。社会的な役割ではなく、それぞれの人々が本来与えられている役割(天から命じられた役割、と言うべきだろうか)。ならば私の役割とはなんだろう。こうして書くこと、考えることはその役割なのだろうか。そうだといいな、と思う。

2021/11/16

年末が近づいている。この季節になると、私は過去のことを思い出す。30代、まだまだ人生これからという時期、私は職場で年末進行の多忙さに追い詰められ、職場で上司が私のあまりのトロさにキレたことをきっかけに自殺未遂をしたのだった(いやらしい言い方になるが、本当に死ぬつもりはなかった。ただもう、なにもかもが嫌になったのだ)。それで年末年始を休ませてもらったのだけれど、その間ずっと酒に溺れて呑んだくれていた。もう、自分の人生はここで終わった。死んだほうがマシだった、生まれてこなければよかった、と思ったのだった……。

その間も読書はしていたのだが、車谷長吉というこの播州の地ゆかりの作家が編んだ『文士の意地』というアンソロジーを読んだことを思い出す。車谷長吉という作家は好きで読んでいたのだけれど、そのアンソロジーは人生の辛酸を嘗めた彼が折に触れて楽しんできた作家の作品を集めた、実に素晴らしいものだった。今思うに、私はこの人生は(この世界は、と言ってもいいかもしれない)生きるにはあまりにも苦しい、と思う。だが、文学があったから、色んな本を読んできたから、生きていられるのかなとも思うのだった。漱石が言うところの「牛のように」。

仕事をした。現実はいつも私をコントロールする。私は自由ではない。私は(スピノザ國分功一郎的な言い方になるが)仕事でたくさんのタスクを求められて、それをこなさなければならない。裏返せばそのタスクをこなす限りにおいて私は自由であるともいえる。どんな風にこのタスクをこなすか? と考える限りにおいて。仕事の苦しみも醍醐味も、ここにあるように思う。従わなければならないのは常に他人が定めたタスクであり目標である。だが、その制限の中でこそ自分の自由を発揮できる。このパラドキシカルな事実。

私はいつも私生活では益体もないことを考えている。エッチなビデオだって見るし、金があれば働かなくて済むのにとも考える。一日中、親の遺産を食いつぶしながらのんべんだらりと生きたい……だが、どこかでそんな生き方を良しとしない自分も居る。呑んでもいいはずの酒を、しかし私は呑みたいとも思わない。発達障害のことだって考え続けたいし、本だって読みたい。それは多分、仕事の中でこそ主張できる自分が存在し、そこでこそ芽生える自分自身の人格があるからなのだろうな、とも思う。その人格とこの人格が地続きであること……到底今日記を書いているこの「のんべんだらり」な自分自身には信じられないが、それもまた自分である。

2021/11/15

Twitterを見ていたら、橋本治の言葉として「目標が決まったら人はどんどん頭が良くなる」という言葉が紹介されていた。この言葉が印象に残って、仕事をしていても離れなかった。私も、ふと「こんな仕事をしていてなんになるんだろう」「こんな人生に意味はあるんだろうか」と憂鬱になることもある。だが、ふとなにかを考えたり書いたりしてそれを発表したくなると、そんな憂鬱は消える。なにかを考えてそれについて書くことは、取りも直さず未来に向けて動くことだからなのかなと思う。書くことは、私にとって希望である……。

私は本を読むのだけれど、本は言葉によって様々な光景を見せる。まだ見たことのない光景を。それを未来と呼んでもいいのかもしれない。本は未来への手がかりであり、あるいは未来そのものである。だから本を読むのかな、と思う。高校生の頃のことを思い出した。いじめに遭ってすっかり人間不信になってしまい、誰とも話さないで教室で本ばかり読んでいた時に、東京に思いを馳せた。こんな田舎町を出て東京に行けばきっと理解者が現れる、こんな狭苦しい町をとっとと出ていきたい、と思っていた時のことを。

本を読む動機の中には多分に「本を読み、知識をつければ人よりも上に立てる」というものもあった。あるいは「本を読めば自分の中で、この混沌とした世界に秩序を与えることができる」とも思っていた。この世界はいつも私にとって混沌としていて、わけがわからなくて意地悪で、理解に苦しむものであった。そんな中で生き残ろうとするなら、私自身を強くさせるしかなかったのだ。だから読書で知識を得て、生き残ろうとしたのだった……でも、その頃のことを思うと私は間違っていたのかもしれないなとも思う。

今思うに、読書から得られる知識はヴァーチャルなものでしかないのかな、とも思う。私は実地で人と関わり、恥をかき醜態を晒しながら自分をリアルで強めなければならなかったのかな、と。発達障害を考えるミーティングと出会ってから、私はそんな醜態を晒す訓練をしてきた。そんなこと考え、それを英会話教室の宿題のプリントに書いた。書き終えて、少し泣いてしまった。こんなことを書きたかったのかな、とも思った。こういうことをずっと書きたかったから英語を勉強してきたのかな、と。全てはここにつながる長い道のりだったのだ……。

2021/11/14

今日も休日だったのだけれど、特にこれといった活動もできずにのんべんだらりと過ごしてしまった。ブレイディみかこ『ヨーロッパ・コーリング・リターンズ』を少し読む。在英ライターによるイギリスおよびヨーロッパの政治情勢や経済について記された切れ味のいいエッセイで、読んでいてタメになる。ブレイディみかこの書くものを読むと、それがどれだけ救いようのない現実を描いていても元気が出てくるのだ。彼女の価値観の中に、「地べた」を生きながら常に上を見上げている姿勢が存在するからなのかもしれないと思った。

イオンに行くと、もうブラックフライデーの準備が施されていた。そうか、もう年末なのか……と思わせられる。今年はなにをやっただろうか……この日記を書き始めたこと、なかなか進行しなかったジョブコーチやサポーターを職場に介入させること、コロナ禍でもめげずにZOOMを使って友だちと色んな会議を楽しんだこと、などが挙げられるだろう。今はワクチン接種のおかげかコロナ禍は落ち着き、私も英会話教室に通えるようになった。だが、もちろん先のことは誰にもわからない。その時その時最善と思える選択をするしかない。

Twitterのことを考えている。アカウントは持っているのだけれど、最近どうもツイートする気になれないので積極的にTwitterをやっていないのだった。極論や暴論がウケるTwitterは、一歩間違えれば群集心理によって誘導される危険な場所でもあると思う。だから私は努めて乱暴な言葉を避けるようにしたいと思っている。Twitter論議されるフェミニズムや今の日本の政治、発達障害の話題などはホットなものであり議論に値すると思う。だが、かつての小山田圭吾バッシングみたいな現象には加担したくないと思っているのだった。

昔はTwitterを議論に有益な空間だと思っていた。私はとあるデパートの従業員でしかないわけだが、TwitterFacebookのようなSNSを利用し一個人で発表することで世界と対峙できる、そんな開かれた環境なのだ、と。それが完全に間違っているとは思わないが、今はどうもTwitterに「ムラ意識」を感じてしまう。少しでも諫言すれば「私の言うことが聞けないのか」「なぜ私に歯向かう」といなされてしまう、という。そんなトラブルはゴメンだ。そういうわけで、私はこれからもそんなにTwitterには出入りしないと思う。

2021/11/13

一昨日の発表のために作成した、発達障害についての資料を英訳する作業を午前中に行った。英訳しながら、やっぱり自分はこうしてなにかを書き続けることが好きなのだな、と思った。それが食い扶持になれば理想的ではあるのだけれど、そうならないとしても私は自分の中から溢れ出てくるものを形にしたいと、常日頃から思っているのだな、と……それをDiscordやWhatsAppの友だちに見せると概ね好評だったので嬉しく感じた。昔、クラスメイトからずっと嫌われていじめられていた頃の自分とは大違いで、今は受け容れられている。それが嬉しい。

その資料を見せたくて、久しぶりに中国(いや、台湾?)の女性の友だちにもWeChatを使って資料を送る。すると今話せるか訊かれたので、リアルタイムで英語で話した。彼女が私の声について、とても心地よく感じられるから好きだと言ってくれたのが印象的だった。学生時代、一体なんの役に立つのだろうかと考えながら英語を勉強したことを思い出す。勉強というものは意外と利害というか損得を考えずに、己の成長を見極めるべくやっていれば予想もつかない形で成果として現れるものなのかな、と考えた。今も英会話教室には通っているのだけれど。

午後、昼寝をしてから一体どうやって時間を過ごすか考えてTwitterのタイムラインを見ていたら、フィリップ・ジンバルドー&ニキータ・クーロン『男子劣化社会』という本の話題が飛び込んできた。早速図書館に行って借りてきて読んでみた。タイトルは挑発的だが、中身は妙なセンセーショナリズムに走ることのない、穏当な提言を示した本だと思った。インターネットの発達によるゲームの普及やポルノの隆盛が、「男子」の生きづらさとどのように結びついているか説得的に示している。私はゲームはしないのだが、ポルノに関しては思い当たるところもあった。

この本が示している、ゲームやポルノで肥大した自己愛に依存して生きるのではなく実地で女性に徐々にアプローチして、失敗を恐れず恥をかきながら経験を積んで実力をつけていこう、という結論は私自身も納得できるものだった。それはかなり時間がかかるし、試行錯誤の積み重ねというのは効率的な成果を求められる現在ではロスが多いため嫌われる。だが、私自身の半生を振り返るにそうしたロスの多さ、失敗から生じる傷もいずれは自分を強めてくれるものだと思う。そんな教訓をもらえるいい本だと思った。だが、トランスジェンダーの問題についてページが割かれていないのが気になる。