跳舞猫日録

Life goes on brah!

2021/09/20

前に書いたデヴィッド・リンチに関するペーパーバック『Room To Dream』を読み終えた。とはいえ、わからないところは飛ばして読んだのだから威張れたものではない。これから二読・三読して徐々に内容を掴む必要があるのだった。だが、ともあれ読み終えたのだから自分を褒めたいと思う。以前に2020年にノーベル文学賞を受賞したルイーズ・グリュックという詩人のペーパーバックを読んで以来、2冊目のペーパーバックとなる。海外の本はデザインがカッコいいのでそれだけで買ってしまいたくなり、痛い目に遭ったこともあったっけ……。

英語を喋れるということで、clubhouseの参加者から凄いと言われた。そうなのかな……私からすればclubhouseでルームを作ってトークを回せる人の方が凄いと思うので、このあたり人との感覚の違いがわかって面白い。何度も書いていることではあるのだけれど、英語は私の場合は「身体で」話していると思っている。場数を踏んで慣れていくと、頭で「あれ? これ英語でなんていうんだったっけ?」と思うより前に英語の単語が浮かんでくる。それをポンと出すと意外と会話というのは回るものだ。その境地が他の人からは珍しいのかもしれない。

英語と日本語を使ってラジオ番組(?)をやるという計画について考えた。いや、一文の得にもならないのだけれどただ今のように貧乏暇ありで映画ばかり観ている日々にも飽きてきたので、刺激が欲しいと思い始めたのだった。番組のタイトルを考えた。「ラブリードライブ」はどうだろう……真面目に考えてこのタイトルになるのだから私とは本当に謎だ。だが、ラジオ番組とは気軽にドライブを楽しむ感覚で聞いてもらうものだと思っているのだった。他には「ハーベスト」という名前も考えたのだけれど……マニアックな番組名ではなく、親しみやすいものにしたかった。

ルイーズ・グリュックやW.S.Merwinの詩集を買おうかどうか迷っている。出費が痛いというのと、あとは買ってもどうせ読まないだろうという理由から二の足を踏んでいるのだった。今までバカみたいに買い込んできたペーパーバックを虚心に読んでからでも遅くはないだろう……なぜ私はこんなに本ばかり読むのだろう。いや、こんな問いの立て方がおかしいのかもしれない。ただ、そこにあるから読む。そこに山があるから登るとか、そこで溺れている人が居るから助けるとか、そんな次元の話なんだろうなと思うのだった。

2021/09/19 English

I'm not good at spending morning time. Always I feel like all of my energy has drained out and been empty. I heard that it is not good if we move from depth to surface so I must think about the process I can recover without trouble. My habit of the morning is to drink coffee and eat breakfast (this is important, I shouldn't spend the day without breakfast because it would cause bad results). And having a bath, doing my laundry, and writing my journal like this. Nowadays listening to the broadcasting on clubhouse has been added.

Today we have an online meeting about autism. Attending this monthly meeting, I have spent about five years. Always I am getting the power from this meeting. I talked about Haruki Murakami. The same theme I had talked about when I had attended the meeting our city's international association had done. I am a fan of Haruki so I'm glad to see increasing his fans. But I don't think it's pleasant if people say "Haruki's novels are basically must-read". Life without Haruki is also precious. I have enjoyed it.

That night, I have watched Danny Boyle's "Steve Jobs". According to this movie only, Steve Jobs is a mysterious person and we can't see what he is thinking. A genius or just a mad person... But his words are critical and don't allow us to obey our commonsense. For example, he said about the device we need to use touch pens is bad because it doesn't allow us to use our fingers. He might be able to see the time we are just living now. He might be able to grip the truth... He looked at the future. He might feel his mission to realize that future.

clubhouse, or podcasts on Spotify(the broadcastings like radio), are the things I am getting to be interested in. Once I had registered stand.fm and done nothing. Maybe now is the time I should post new content. I might have to take it easy. Yes, I am enjoying to listen English content for learning but... Being shy makes neither money nor fun. So I decided to think about the new program's idea. Little by little... The program contains Japanese and English content. Or showing the tiny misunderstanding in English. That will be the content.

2021/09/19

朝は苦手である。自分の中からエネルギーが流出してしまったあとのような、カラカラの感覚を感じるのだ。深海から一気に水面に上がるとかえって身体に悪いというので、あまり無理せず回復できるようなプロセスを考えないといけない。私が習慣にしていることといえばコーヒーを飲むことと朝ごはんを食べること(これは重要。若い頃のように食事を抜いてしまうと本当に持たなくなる)。そして風呂に入り洗濯をして、この日記を書くこと。そこに最近はclubhouseで英語の放送を聞くことが加わりつつあるのだった。

今日は発達障害を考えるミーティングがあった。毎月このミーティングに参加するようになって、かれこれ5年ぐらい経つのではないだろうか。いつもここで元気をもらっているように思う。私は村上春樹について話した。前に宍粟市国際交流協会のミーティングで話したのと同じことだ。村上春樹に関しては私はファンだし、もっと読まれれば当然嬉しい。だが「村上春樹は基礎教養でしょ」という空気が生まれるのはあまり嬉しくない。村上春樹のない人生。それもまた貴重な人生なのだと思う。今日も充分に楽しんだ。

夜、ダニー・ボイル監督『スティーブ・ジョブズ』を観る。この映画を観る限りではスティーブ・ジョブズという人は本当になにを考えているのかわからない。天才なのかただの狂人なのか……だが、彼が語る言葉はハッとするほど鋭い。タッチペンを使わなくてはならないデバイスに対して「指が使えない」からダメだと言ったあたり、今の時代にも通じる真理を見抜いていたのではないかと思う。ひとつ私が思ったのは、ジョブズには未来が見えていたということだ。使命感すら感じてその未来を具現化しようとしたのかもしれない。

clubhouseやあるいはSpotifyPodcast(ラジオ番組みたいな音声での配信)に対して興味が湧きつつある。前にstand.fmに登録したままなにも更新していなかったのだけれど、またやってみてもいいのかもしれない。もっと気軽にやってみてもいいのかな、と。聞き手として英語の番組を聞くのも楽しいんだけれど……シャイになっていても金は儲からないし面白くないので、新しい番組のアイデアを考えたいと思う。まあ、少しずつだ。英語と日本語を混ぜた番組や、英語の豆知識を披露する番組で面白いものができないだろうか。

ダニー・ボイル『スティーブ・ジョブズ』

ダニー・ボイルスティーブ・ジョブズ』を観る。そうか、今年でジョブズが亡くなって10年が経つのか、と思ってしまった……と玄人っぽく書いてしまったのだが、実は私はMacとは無縁に生きてきたのだった。ただパソコン関係に関して素人であり、かつ周囲が呆れるほど関心もないのでWindowsAndroidを使い続けているのだけれど、ジョブズが未だにカリスマとして崇め奉られ、理想のリーダーとして語られているのを見るとそれはそれで凄いことなのだなと(実情もわからないままに)思ってしまっていた。この映画はもちろんノンフィクションではないのだけれど、そんな「ジョブズは天才」観にローキックを入れるに充分な出来だと思った。

この映画はジョブズが十八番としていたと言われている(?)プレゼンの内代表的なもの3つの舞台裏に迫り、そこから逆算してジョブズとはどういう人物だったのか洗い出す仕掛けが施されている。つまり、ジョブズの生い立ちやアップル設立、そしてコンピュータを実際に作ったり新製品を出したりといった流れが時系列的に語られるわけではないのでそのあたりわかりにくいかもしれない。しかし、そのような批判(?)は制作陣もわかっていて撮ったはずだ。実際にこの映画を観ていても、ジョブズの功績について語るというより――そんなものはもうみんな知っているから?――そんなジョブズの人柄について迫ったものと思われる。

しかし、ここで開陳されるジョブズの人柄のなんという冷酷なことだろう。いや、ジョブズの人柄が聖人君子でないことくらいは巷間のメディアの情報からわかっていたことだったのだが、彼はその千里眼とも呼べる視線で未来を見通していた。例えば彼は、タッチペンを使ったデバイスがコケることを予見していた。そんなことをしたら指が使えないからだ。そのような鋭さは流石だと思ったのだけれど、ではジョブズが発明/開発するものが全てが全て斬新かつ実用的というわけだったのではもちろんない。彼の開発するものは映画を観る限り、こんな「今」であっても非実用的で理想が高すぎる。

理想が高すぎるもの、あるいは非実用的なもの(ユーザーの改良を許さないクローズドなマシンの設計にそれは現れている)。それは裏を返せば顧客を信用していなかったというか、フレンドリーな姿勢を許さなかったということだろう。市場に歯向かうものを作る姿勢はもちろん商売でパソコンを売る同僚・盟友たちの逆鱗に触れる。だが、そんな非実用的なものであってもジョブズは売れるとか「世界が変わる」とか、ボブ・ディランを引き合いに出して語るのだからもうメチャクチャである。リサという自分の娘を認知しないいざこざに関しても本当にこの人は人の親に向いていない。

そんなジョブズの、天才なのかアホなのか、誇大妄想狂なのか稀代のカリスマなのかわからない人間性マイケル・ファスベンダーという俳優によって演じられる。この映画は基本的に閉じられた空間で演じられる(プレゼンの直前の楽屋や閉じられたホールのステージ、等などで)。だから密室劇を観ているような息詰まる臨場感やスリルは確かに味わえるし生々しい。退屈する暇を与えないというか、中だるみを許さないテンションは見事だと思ったのだけれど流石にそのテンションだけで2時間を持たせるのはキツかったのではないか。どこかで「タメ」というかまったりする瞬間があってもよかったように思った。

それにしても、だ。ジョブズばかりが本が刊行されたりカリスマにされたりする風潮があるが、私はこの映画を観てウォズニアックやスカリーといった「脇役」に惹かれるものを感じた。彼らは言うまでもなく常識人であり、それ故にジョブズのような千里眼を持っていなかったと描写されている。だが、彼ら「脇役」が居なければジョブズのような商才のない人(なにせプログラムも書けないのにコンピュータを知悉していると嘯くのだ)はとっくの昔にコケていたと思う。その意味で、ウォズニアックやスカリーの側から見たジョブズを観てみたくさせられもしたのだった。ニーズはあるのではないか。私は観てみたい。

2021/09/18 English

Why? Still now, when I write this journal in Japanese and English, I think that "What should I write?" and "I might be able to find nothing to write". We can't say that the things we could do yesterday can be the same today. But, if I start, I can. It's the same as the work. If I go there and endure the pressure which drives me mad, I can do my work. I remember the things I wrote once. Just do it. Just trust my body. I should trust the memories which are existed everywhere in my body. I should go a step forward with trusting "Alain on Happiness".

I started writing movie reviews on Letterboxd. I might have watched about 500 movies... Ah. I have written these memories of movies in my body. Recently I have been able to enjoy movies with remembering the breaths of these movies. Even it's just my selfish style, but I can enjoy Godard and Truffaut movies now. I want to know how my reviews are read by foreign readers/reviewers. But now I get no reactions from them. That's OK. From now. I have just started.

I've watched Jonathan Dayton and Valerie Faris's movie "Battle of the Sexes". It describes a serious battle between a man and a woman in Tennis. I remember the movie "Rocky". "Rocky" was the movie in which a nobody challenger Rocky shows his strongness and does a great match with a champion. I want to watch "Rocky" again. In "Battle of the Sexes", there is a description of lesbian romance. I think about the life in which a person lives his/her life honestly, and try to be just the person who he/her is.

I was born an autistic person. Therefore I have been laughed at or hated. Still, now I have been hated at my office. Just a person who read books only and has ideas that aren't understandable... Until now I have not been married to anybody and just lived life with laziness. I just enjoy life with no responsibility... But the wind of the era blows to follow us, autistic people. I will watch movies, read books, think about what is autism... No, I can't live an alternative life. I have lived this life unflexible and this life still goes on as usual...

2021/09/18

なぜだろう……今でも毎朝、例えばこの日記を日本語と英語で書く時に「今日はなにを書くべきだろうか」「なにも出てこないかもしれない」と思う。昨日できたことが今日できるとは限らない。だが、書き始めると書けてしまう。仕事にしてもそうだ。行ってみて、死ぬほど辛いプレッシャーに耐えて仕事を始めるとできてしまう。前に書いたことを思い出す。とにかく身体に任せることだ。身体の隅々にまで刻み込まれている仕事の記憶を信じて、やってみることだ。アランの『幸福論』を思い出して一歩踏み出すこと。

Letterboxdというサイトに英語で映画評を記録し始めた。映画も、かれこれ500本は観ただろうか。映画のリズムを身体に刻みつけて、2時間の映画なら映画の呼吸を頭と身体に覚え込ませたことでようやく観るのが苦にならなくなってきた。ゴダールトリュフォーの映画も、自分なりの流儀でではあるが楽しめるようになってきた。もっと自分のレビューが海外の人からどう読まれているのか知りたい。だが、今のところ反応は全くと言っていいほどない。まあ始めたばかりだししょうがないだろう。これから、これから……。

letterboxd.com

ジョナサン・デイトンヴァレリー・ファリスバトル・オブ・ザ・セクシーズ』を観る。テニスにおける男と女のガチンコ勝負を描いた映画で、『ロッキー』を思い出した。『ロッキー』もまた噛ませ犬めいたロッキーが周囲の予想に反して実力を見せつけ、チャンピオンと互角の勝負をする映画だったからだ。そう考えると『ロッキー』を観直したくなる。『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』では主人公のレズビアンの恋愛描写も描かれており、改めて「自分が自分であること」「時代に反して自分を貫くこと」について考えさせられる。

私自身、発達障害者として周囲に嗤われ、嫌われて生きてきた。今も職場では嫌われ者なのだろうと思う。本ばかり読んでいる、なにを考えているかわからない人……この歳になっても結婚もせずブラブラ遊んで暮らしているようなもので、それはそれで私が選んだ人生なのだからしょうがない。だが、時代の風は私の方向、というか発達障害者を支援する方向に向いていると思う。これからも私は映画を観て、本を読み、自分の発達障害とはなにかについて考えることになるだろう。というか、そうとしか生きられない。これまでもそんな不器用な生き方しかできなかったし、これからもそうだろう。

ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』

ジョナサン・デイトンヴァレリー・ファリスバトル・オブ・ザ・セクシーズ』を観る。なかなか興味深い映画だと思った。映画の画質もあってか、レトロな雰囲気を醸し出すことに成功している。そしてこの映画で語られる時代もまた、ニクソン大統領の時代でありつまりは古き良き時代だったということになる。それを取り違えてしまうと「一体なんのこっちゃ」という解釈になってしまうだろう。私は、最初観た時は「レズビアンという個人的出自と男女のガチンコ勝負と、どっちを描きたいのだろう」と不思議に思ってしまったのだった。だが、この「レズビアン」と「男女のガチンコ勝負」はアウフヘーベン的に「止揚」されてひとつの主張へと繋がっていくのである。それは確かに見事だと思った。


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女性のテニス選手で、ビリー・ジーン・キングという人物が居た。彼女は連戦連勝の女傑だったのだが、女性のテニス選手は男よりも劣る(が故に、賞金や待遇が男より格下でも当然)と見做される風潮に異を唱え歯向かうことになる。自分たちだけのトーナメントを作ろうと動く彼女のところに、ボビー・リッグスという「殿堂入り」を果たした男のテニス選手が電話をしてくる。ぜひ自分と勝負/対決して欲しい、というのが骨子だった。かたや女傑、こなた「殿堂入り」。話題を呼ぶ対決だがビリーはなかなか首を縦に振らない。自らのレズビアニズムに翻弄されつつ、彼女は迷い続ける。だが、やがて彼女は決意する……これがプロットである。

「もっとデーハーに盛り上げてもいいんじゃないかな……」と思ったのだった。エキシビジョン・マッチで、つまり男性優位社会の男がわざわざ女を相手にしてやると言わんばかりの「見世物」の興行なのだからそのキワモノ的な扱いを今の目線から批判的に描くか、もしくはもっとユーモラスに描くかすればよかったのではないかと。具体的には『ロッキー』を思い出して欲しい。あれもシルベスター・スタローンという場末のジムのボクサーに対して全米チャンピオンがわざわざ「見世物」の試合を仕掛け、瓢箪から駒的な展開になる話だった。なにを言いたいかというと、もっとギミックをふんだんに使えばよかったのにということだ。

そして、そのような男性優位社会にあぐらをかく男と(ボビー・リッグスがそんなに単純なパーソナリティの持ち主だったのかは意見が割れると思うが)、彼に歯向かうビリー・ジーン・キングの戦いを描くにあたってビリーがレズビアンだったことを描くのは果たして得策だったのかという話も成り立つと思う。レズビアンとして、つまり時代が許さない禁断の恋(?)に身を焦がすビリーの悲恋はパーソナル/個人的なものであり、男と女のガチンコ勝負が意味するパブリックなものではない。つまり、そんなパートを深く描かなくてもガチンコ勝負は描けるのではないかと思ったのである。

しかし、最後まで観終えて私は考え方を変えた。要はこの映画はビリーという個人が生きづらさを背負いながら――それは「女性」という性を背負ってしまったことと、その中でも更に「レズビアン」であるというマイノリティ性を背負ってしまうことの二重の生きづらさとして現れるだろう――それでも彼女らしさを貫こうとする時、テニスコートの中が彼女が自分自身を発揮/発露できる場所だった、ということではないかなと思ったのだった。映画のエンディングは明るい。それは彼女が試合で活躍したからだけではなく、彼女の生き方が認められる時代がそこまで来ていることが(私たちにも実感を伴って)わかるエンディングになっていたからだ。

なのだけれど、でもテニスの試合の運ばせ方にしても「もう少し盛り上げてもいいような……」と思ってしまった。というか、試合に割かれる時間が短すぎるのだ。ならばそれこそ『ロッキー』のようにトレーニングを通して成長する彼女の姿を表現/表象するなり、先にも書いたけれどメディアの狂想曲ぶりを描写するなり、やりようはあったはず。それがないのでなんだか地味な映画のように映ったのだった。駄作、とは言わない。傑作になりそこねた惜しい映画、というのが正当な評価のように思った。エマ・ストーンの戦略的な野暮ったさはなかなかいいなとは思ったのだけれど……。