今日は遅番だった。今朝、いつものように英会話関係のZoomミーティングに参加し、そこで英語学習にいそしむ(今日の話題はトラックの自動運転化の採用の是非について)。その後、グループホームの本家におもむく。今日は副管理者の方が出勤しておられたので、事前にお話していたこととして足の先(指先のあたり)がすこしばかり痛むことが気になっていたことがあって、その足を見てもらった。その副管理者の方は靴をチェックされた後、靴ひもをゆるめてくださってこれで様子を見てみて、だめならまた医師に診てもらいましょうと話された。その後これまたいつもの過ごし方のパターンにのっとり、食堂を使わせてもらってそこで昼ごろまで佐伯一麦の本『ノルゲ Norge』をぼちぼち読む(地味でさほど起伏もなく、いわゆる「血湧き肉躍る」たぐいの小説でもないがなぜか「滋養ある」というか「沁みる」おもしろみがある小説と唸らされてしまった)。それも一段落すると、図書館に行ってそれでお目当てだったチママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』を借り、その後なんとなく見つけたトーマス・ジョイナー『男はなぜ孤独死するのか』という本も借りてしまった。いつ読むんだろう。
その後、イオンに行きそこで昼弁当をいただいた後に仕事前のスタンバイ。スマートフォンでTwitterを見たらまだ例の東洋水産の赤いきつねと緑のたぬきのことが話題に上って、フェミニストたち(なんとなくだが、気軽に「ツイフェミ」と呼ぶことはためらわれる。この言葉って「蔑称」じゃないですか?)が自論をたたかわせていた。そこにさまざまな人たちが異論をぶつけていて大盛りあがり。もちろん、こんなのはアルゴリズムが勝手にはじき出して差し出した投稿ばかりであり世間一般の話題からずれているかもしれないが、それでも気になってしまう(たぶんそういう話題が頭の片隅にあったこともあって、アディーチェの本を読みたいと思ってしまったのだろう。英語を学ぶ練習の一環も兼ねてTEDなんかでフェミニズムをめぐるトークを聴いてみるのもおもしろそうだ)。このコンパクトながらあなどれそうにない、実にアクチュアルな本から多くを学べればと期待に胸がふくらむ。
その後、ひまつぶしにそのTwitterで投稿にいそしむ(昔ほど50も60も投稿することもなくなり、いまはせいぜい日に10くらいしか投稿しなくなってしまった)。あるユーザーが別の男性にたいして、彼の内面に問題があって(刷り込まれた「有害な男らしさ」というのだろうか?)それがフェミニズム理解をさまたげていて素直にフェミニズムを理解できないのではないかというかたちの意見を書いておられた。興味深い意見だし、もちろんぼくにはね返ってくることでもある。イヤミ抜きでぼくもこうした「否認の病理」にとらわれず、虚心坦懐にフェミニズムを学びたいとも思ってしまう。だが、それを踏まえたうえで書くがぼくはその論に宗教で言うところの「折伏」にも似た、ある人間が下々の者たちに「正しいイデオロギー」を「説教」「注入」するという「上から目線」を感じる。一般論として、ぼくは絶対的に正しい(あるいは普遍的な)イデオロギーがあるとはなかなか信じられない。
もちろんなんでもかんでも懐疑的・相対主義的になってしまうのも子どもじみたふるまいだとも思うが、そうしたイデオロギーは実地で実現される際にしばしば有害な間違いとして発揮されることもあると思う(つまり、「人間ごとき」が生み出すものがそんなに完全無欠なものだとは思えない。たぶんこれはぼくの思考の生理にもとづくペシミスティックな考え方なのだろう)。フェミニズムに的をしぼって書くならば、すくなくともぼくにとってはそんな「不完全な」人間同士が男女問わず「コラボレーション(共同作業あるいは協調関係)」において助け合い・教え合って前進していくものだと思っている。いや、きれいごとだろうか(あるいはそれこそ屁理屈の極みか?)。でも、被害妄想めいた書きぶりで恐縮だがそれでも「上意下達」というか「正しい上位の存在たち(女性?)」から「下々の者たちへ(男性?)」に「説教」する図式というか支配関係よりはその考え方を選びたいと思うのだった。
もちろん、こんなことを恥ずかしげもなくほざけるのはぼくが男だから・野郎だからなのかもしれない。女性たちの人生がどう厄介きわまりないものなのかついに知らないというか、あるいは想像はできても肌で・骨身に沁みて感じることがついにない性の持ち主なのでだからおのずと限界もあろう。たとえば、ぼくは生理に悩まされることはないので生理用品を買ったことはない(買うにはカネもかかるし、聞いた話でしか理解できていないが生理にともなう痛みやストレス・不調に悩まされるのは実にやっかいなはずだ)。あるいは電車の中で痴漢に遭ったこともないし、他にも性から来る「性的搾取」「性的消費」のありようもおのずと違ってくる。だから、ぼくはいまだに自分がフェミニストになれるとは思えない。すくなくとも「ぼくは女性の味方になれます。ぼくはトラウマだってなんだって理解できます」なんて言えない(とはいえ、そこで「あきらめて」しまうのではなくできる限り「他者」の痛みを想像する生き方をしたいとは思う)。ただ、このオトコとしての性ゆえに「あなたは間違っている(男だからわからないのだ)」とかあるいは「もっとフェミニズムを勉強してください」と頭ごなしに(ここがポイントだ)言われたら、どうしたらいいんだろう。性転換すべきなんだろうか。
ああ、今日はなんだか締まりのないことをだらだら牛のよだれのように書き継いでしまった。Twitterを見すぎて取り憑かれてしまったのだろう。でも、仕事をしながらもぼくはしつこいので自分の中で対話をかさねつつフェミニズムについて考えたり、そこから「有害」とも言われるぼくの男らしさ・男臭さ(もっと言えばマッチョさというか、下品な言葉を使うなら「男根主義」)についてあれこれグルグル考えたりした。なんだかむずかしい。そして、こんなことをアップロードしたらそれこそ「炎上」したりしちゃったりするのかもしれないけれどそれでも今日は残すことにしたい。というのは、いまもってなおスッキリしないからだ。ここからなんらかの建設的なアイデアが生まれることを祈りたいと、いまはそんな気持ちでいっぱいだ。いや、ホンネであります。
