跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/06/01 BGM: Original Love - 朝日の当たる道

今日は休みだった。今朝は天気も良かったので、午前中はぼくの住んでいる町のある山に登りそこでしばしスティーブ・ライヒを聴きつつ自然を「感じる」ことにつとめた。いろんな考えがぼくの頭をよぎるのを感じた。文字どおり、すばらしいとしか言いようがない自然に包まれながらぼくは過ごした(それこそ、それらの自然は「3次元」というか「サラウンド」なものとしてあった)。しだいに余計なことを考えられなくもなり、自然に唸らされてぼんやりしてしまう。スットコドッコイな人間なので、虫よけスプレーやその他のグッズをなにも用意しておらず蚊に悩まされてしまったりもしたのだけれど(「虫よけスプレー」って英語でなんて言えばいいんだろう)、それを除けば心の底からぼくは自分がリフレッシュされ、心が洗われたのを感じた。

周知のこととも思うけれど、ぼくはゲームやショッピングをできない性分であることもあってもっぱら退屈しのぎ・暇つぶしとして本を読む(だから、なにかを得たり教養・体系を自分の中に築き上げるためではまったくもってありえないのである)。でも今回、実は平凡社ライブラリー版のフェルナンド・ペソア『不穏の書』をその山に持参したりもしたのだけれど、読めるわけもなかった。その代わりに、眼前の青々とした・鬱蒼と茂った森をこそ「読む」ことにした。とても居心地良く神々しい雰囲気だったので、なんだか初期のヘミングウェイの短編を貫いている自然の雰囲気・空気感(ニックが出てくるやつだ)を連想させられたりもしたのだった。

肺を働かせ、臓腑を働かせて新鮮な空気に触れ、深呼吸を繰り返す。ぼくの心とはこうして考えるとほんとうに「カオス」というか「シッチャカメッチャカ」だと思った。陳腐な言い回しになるが、ぼくの中にはそれだけ日々の生活とりわけインターネットで得た「デジタル」かつ「バーチャル」なんたらかんたらな情報の断片が垢のように溜まっていてこうしたかたちでの発散というか「デトックス」を待っていたということかもしれない。ぼくが外の世界に自分の中のものを同調させて心持ちを調整させていけば、それにともなってぼくはそうした要素が流れ出て自分が解放されていくのを感じる。カオスというか混沌としていてうっとうしい心理的なストレスから解放されてラクになるというか、「除霊」「お祓い」にも似たスッキリした感覚を感じられたというか。でも、おかしな話だ。自然は嘘ついたりしない。それは人間とは違う。でも、余計な刺激を禁欲した実に静かなたたずまいを保ちそこにある。それをさっきも書いたけれどぼくが勝手にメッセージ性を読み取ってあれこれ考えているのだった。

言うまでもなく、そんなあまりにも美しく神々しい自然の中で生きていけるわけもないので……山を去り、昼食を摂ってしばし午睡を楽しむ。午後はのんべんだらりと、ここ最近鬱だったこともあって柄谷行人『探究1』のページをめくって過ごす。ウィトゲンシュタインの理論・哲学に言及しつつ、柄谷行人がコミュニケーションについてきわめて論理的・理知的に考え抜く姿勢にあらためて畏怖を感じた。崇高であるとさえ思い……コミュニケーションがどうぼくたちの生活の中で機能しているか、もっと平たく言えばどうぼくたちが会話しているか。もちろんそんなことを頭でっかちに考えても脳がパンクするだけなのだけれど。世の中にはつねにこうしたことにいちいちつまづいて・引っかかって考えてしまい、「思考マシーン」になってしまう人もいるのだろう。ぼくもそういう人間なんだろうか。