跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/03/28 BGM: 井上陽水 - 夢であいましょう

人生、こんな状態が続いてなんの進展もないように見える……ほんとうに進歩しているんだろうか。今日、昼食の時間にそんなことを考えた。毎日がほぼ、決まりきったことの繰り返しでできているように見える。起きて仕事をして、本を読んだり英語でチャットや会話をしたりというように。ああ、なんとも味気ない生活だ。でももちろん、過去の自分自身の生活・足あとを振り返ってみるとそこに確かな「成長」(なのかな?)と思えることが刻み込まれているのに気づく。20代はぼくはただの無知で、あえて下品な言い方をすればただの「ケツの青い」青二才だった。ブラーと村上春樹をこよなく愛し、是枝裕和の映画をかじったりするような。いまはもう少し多彩な本を読み、ジャズやフュージョンを聴いてみたりと変化している。

人によっては、ぼくが英語学習や日々を生きることそのものについてとても頑張って「努力」していると言って下さったりする。もちろん、それはほんとうにうれしいことだ。でも、お気を悪くされたら申し訳ないのだけれど、ぼくは率直に言ってそんなに(謙遜ではなく、本心から思うに)「勉強家」「努力家」だと自分のことを思うことはできない。ただぼくがやっているのは、「(もしかしたら、状況・環境さえ整えば)誰でもできること」だ。思いをメモパッドに英語で書きつけて、それをこうしてディスプレイにキーボードを使ってタイプしていく。

その昔、著名なテレビタレント・明石家さんまはテレビ番組で努力という概念にそんなに重きを置かず、信じていないと語っていたのを思い出す。「努力」という言葉を過大評価している、といったことを。面白い価値観と思う。ぼくがぼくの視点から思うに、たぶんぼくは努力なんてしたことがないように思う。少なくとも、「効率的な」努力というか「コスパのいい」努力はしたことがない。ただ、好きなことを無駄・無為をも省みず時間を湯水のごとく費やしてやってきただけだ。本を読んだり、英語で話をしたり、ああだこうだと。

だから、この日々の執筆(というかなんというか、ともあれ日記を書くこと)もぼくにとっては「努力」なのかどうなのか。失礼な言い草になるかなと思うけれど、実感としては自分の楽しみのためにささやかに続けていることだ。盆栽を愛でるのに似ているかなと思う。でも、そろそろ違うことに興味を向けて日々に彩りを添えるのもいいかなと思い始めてきた(味付けに飽きたら違うスパイスを加えるような気軽な感覚で)。どうしよう。ゲームを始めるべきか。でも、ぼくはれっきとした(?)依存症者。ゲームにハマりすぎるのはよくないとも思う。

夜になり、Discordについてプレゼンテーションをする機会があった。でも、ああ、書く余裕がない。聞いて下さったみなさん、ありがとうございました。